死合わせの森と戦いの始まり
枯れた斜面を登りきると視界が開けた。
そこは、かつて庭だった場所らしい。
石畳の小道が崩れた花壇の間を縫って続いている。
刈り込まれていたはずの植木は、今や骨めいた枝を晒すだけだ。
噴水の跡に水はなく、底に黒い澱が溜まっていた。
その奥に、目当ての建物がそびえている。
崩れかけた洋館。
三階はあったであろう屋根は半ば落ち、枯れた蔦が外壁を這っていた。
窓という窓は割れ、そこから漏れる紫の靄が館全体を薄く覆っている。
瘴気は、もはや匂いだけの話ではなかった。
空気そのものが重い。喉の奥にざらついた苦みが張りつく。
むき出しの肌がぴりぴりと痛んだ。
ここに長居すれば身体の内側から腐っていく。
本能がそう告げている。
「……ひどい場所だな」
俺の呟きに、誰も軽口を返さなかった。
それだけで状況の深刻さが知れる。
ボズは灯りを消し、腰の得物へ手をかけている。
レイラとシュカは既に身を低くして周囲へ視線を配っていた。
クレイドは館の一点をじっと睨んでいる。
「来るぞ」
クレイドが短く言った直後——足元が揺れた。
地の底から突き上げるような震動。
石畳が割れ、庭の残骸が浮いて跳ねる。
館の裏手の崖が内側から爆ぜ、崩れる岩の向こうから、それは這い出てくる。
——邪竜だ。
全長は館の幅を優に超えていた。
鱗は本来の色を失って黒く濁っているようで、隙間から紫の光が脈打っている。
翼は破れ、骨がむき出しになっていた。
生きているのに腐っている。
呪いに侵された竜——それが呪竜ヴィシャンテらしい。
濁った双眸が俺たちを捉えた。
瞳の奥には、憎悪とも苦痛ともつかない光が渦を巻いている。
喉からは地鳴りに似た唸りが漏れた。
それだけで枯れ木が数本、根元からへし折れて吹き飛ぶ。
(か、勝てるわけないだろ……)
膝が笑うどころの話ではなかった。声も出ない。
足の裏が地面に貼りつき、一歩も動くことができない。
坑道の百足が可愛く思えるほどの圧だ。
あれとこれとでは生き物としての格が違う。
邪竜の登場に呼応するように、庭の四方から別の気配が湧いてきた。
枯れ木の陰、崩れた壁の隙間、地の裂け目。
瘴気に引き寄せられた魔物たちが這い出てくる。
坑道で見たものより雑多で、生命に飢えているようだ。
気付けば俺たちは囲まれていた。
邪竜が大きく顎を開く。
喉の奥に紫の光が集まっていく。
馬鹿でも理解できる。何かが来る。
その瞬間——俺の身体が勝手に動きだした。
正確には、逃げ出していた。
恐怖が理性を追い越したのだ。
俺は無意識のうちに邪竜に背を向け、庭を突っ切って走っていた。
行き先など考えていない。あの化け物から一秒でも遠ざかりたい。それだけだ。
そうして、本能が逃げ込む先に選んだのが、目の前に建つ崩れかけの洋館だった。
割れた扉を蹴破り、館の中へ転がり込む。
背後では、竜の吐いた紫の炎が、先ほどまで俺の立っていた庭を舐めた。
間一髪……いや、間一髪ですらない。偶然助かっただけだ。
あまりに情けない逃走。
流石に幸せの森のメンバー達も俺を見限ることだろう。
・
脱兎……否、目標へ向かって一直線に、闘牛のような勢いで館へ向かったデスを目にして、幸せの森の面々は立ち尽くしていた。
「デス様が、単身で……」
ボズが呆然と呟く。
「呪いの根源たる館へ……! 最も危うい本丸へ、たったお一人で斬り込むおつもりッ! な、なんという勇ましさッ!」
ボズの言葉を聞き、クレイドが剣を抜いた。
「……そういうことか。デスの狙いは最初からヴィシャンテではなく、館の奥に眠る何かだったわけだ」
正確には、「館の奥に眠る何か」ではなく「館の奥で眠る」が狙いだった。
「戦いでは一瞬の判断の遅れが命取りになる。この状況では皆で作戦を立てることも難しいだろう。故にデスは、俺たちに何も告げずに走った。仲間であるなら——行動から意図を読み取れ、ということだ。ならば、俺たちの役目は決まったな」
クレイドの声が庭に通る。
「レイラ、お前と俺でヴィシャンテを止める。デスが館の用を済ませるまで、あの化け物を一歩も先へ行かせるな」
「ん……デス様の邪魔は、させない」
レイラが短剣を構え、竜へ向き直る。
「シュカ、お前は——」
「あたしも主のところへ!」
「それはできない」
クレイドが、食い下がるシュカを制した。
「群れを放てばヴィシャンテどころではなくなる。お前は残り、ボズと共にこの庭を抑えろ。
「でも……ッ!」
「それも、主を守ることではないのか?」
シュカは唇を噛むが、それでも反論はしなかった。
癒えたばかりの身体で我を通す危うさ、そしてクレイドの方が全ての面で優れていることは、彼女自身が誰より分かっている。
「……分かった。ここは、あたしとおっさんで食い止める」
「おっさんとは失礼な。まだ二十九ですよ」
軽口を叩きながら、ボズが一歩前へ出た。
その丸い背は普段よりも大きく感じられる。
じわじわと間合いを詰める魔物の群れ。
数は、ゆうに百を超えていた。
とても二人で抑えきれる相手ではない。
だが、ボズは慌てなかった。
懐から古びた笛を取り出す。
深く息を吸い込むと、それを高く掲げた。
「——さぁみなさん、恩人のお役に立つチャンスですよ」
ボズが笛を吹くと、甲高い音が庭の空気を裂き、遠くまで響き渡る。
それに応えるように、斜面の下や枯れ木の森の奥から、地を蹴る無数の足音が近付いてきた。
二十人はいるだろう。
かつてボズが買い取り、鍛えあげてきた奴隷とは名ばかりの集団。誰もがBランクの冒険者に劣らぬ手練れである。
奴隷たちはボズと群れとの間に立ちはだかり、一斉に得物を構え出す。
「勘違いしていたようですねぇ……」
ボズが笛を収めて静かに告げる。
デスに向ける追従の色はなく、ただ冷酷な声だった。
「優位なのはこちらの方です。自らが狩られる存在だと理解していただきましょう」




