幕間
魔王城の最奥。
玉座の間はいつものように薄暗い。
高い天井を支える柱には、古い戦の記録が彫り込まれている。
かつて人と魔族が並んで刻まれたその壁を、今は誰も見上げようとしない。
玉座に腰かけた男は、頬杖をついて目を閉じていた。
——魔王ザガン。
まだ若く、人間で言えば二十代半ばほどにしか見えない。
だが、その身にまとう気配は、この城の誰よりも重く冷たかった。
遠慮がちな足音が、石の床を叩きながら近付いてくる。
「ま、魔王様。ご報告に上がりました……!」
入ってきたのは小柄な魔族だった。
角は短く、鱗の艶もまだ薄い。位の低い伝令だ。
膝をつく手が微かに震えている。
「申せ」
ザガンは目を閉じたまま短く言った。
「は、はいっ! ドゥーダ山の……呪竜ヴィシャンテの件です。順調に力を蓄えておりまして、館に囚えた姉妹からの、その、呪いの吸い上げも、滞りなく」
伝令は言葉を選ぶように声を落とす。
「あの姉妹、ずいぶんと弱ってきているようで……このままですと、そう長くは持たぬかと」
「構わん」
ザガンの返答に迷いはなかった。
「竜が満ちるまで絞り尽くせ。二人まとめてな」
伝令の肩が跳ねる。逆らう素振りは見せなかった。
深く頭を垂れ、震える声で「承知いたしました」とだけ返す。
「それと……妙な話がありまして」
「なんだ」
「ヴィシャンテの討伐に向かった者がいるようです。『死合わせの森』という新参のギルドらしく……」
恐る恐る続けた。
「奴隷商に忍、それと……魔王軍を抜けたクレイド様。率いているのは、デス・カイザーと名乗る得体の知れぬ男だと」
その名を聞いてもザガンの表情は動かない。
閉じていた目を、ゆっくり開いただけだ。
「……クレイド、か」
魔王は何かを言いかけたが、その先は続かなかった。
玉座の間に、しばしの沈黙が落ちる。
ザガンの視線が、ふと、傍らの窓へ流れた。
厚い雲の切れ間から、細い月明かりが差し込んでいる。
その光を、彼はしばらく、何を思うでもなく眺めていた。
……いや、本当は何かを思い出しかけていたのかもしれない。
その横顔は、玉座に座る魔王のものではなく、どこか遠い日の少年のようにも見えた。
「——ザガン様」
声が割り込んできた。
伝令のものではない。もっと近く、玉座のすぐ脇から。
いつからそこにいたのか、一人の男が音もなく佇んでいる。
痩せた長身に、丈の長い黒衣。
整いすぎた顔は年齢の見当がつかない。
——側近のディードリッチ。
この城で、魔王の次に権力を持つとされる男だ。
「どうやらお疲れのご様子。込み入った報告は、私が代わりに受けましょう」
ディードリッチの声は耳あたりがよかった。
柔らかく、丁寧で、どこまでも滑らかだ。
「そのような報告に一々お心を割かれずとも、あなた様の御手を煩わせる話ではございません」
「……あぁ」
窓を見ていたザガンの目から、何かがゆっくりと引いていく。
月を映していた瞳が、もとの底の見えない暗さに戻った。
「そうだな……クレイドだろうとなんだろうと、全ては些事だ」
ザガンは再び頬杖をつく。
「人間どもが来るというなら好きにさせておけ。館に着くまでもなくヴィシャンテが片をつける」
「賢明なご判断かと」
ディードリッチは恭しく頭を下げた。
「では、あとのことは私めが」
伝令の魔族は、その様子を青ざめた顔で見ていた。
側近が魔王の言葉を継ぐたび、玉座の主が少しずつ遠くなっていく。
そんな気がしてならなかったが、口にできるはずもない。
逃げるように、伝令は玉座の間を後にした。
残されたディードリッチは、退室していく小柄な背を静かに見送っている。
やがて静寂を取り戻した玉座の間で、ディードリッチの口元が、ほんのわずかに動いたようにも見えた。
それが笑みだったのかどうかは、薄闇に紛れて誰にも分からなかった。
・
玉座の間を出た伝令は、長い廊下を早足で歩いていた。
背中には、まだあの部屋の冷たさが張りついている。
角を曲がり、人気のない渡り廊下まで来て、ようやく詰めていた息を吐いた。
「おい、新入り。ずいぶんと顔色が悪いな」
柱の陰から、しわがれた声がかけられる。古参の門番だ。
片方の角が根元から折れ、鱗のあちこちに古傷が走っている。
この城に、魔王が三代替わる前から仕えているという老兵だ。
「じ、実は……魔王様に、直答を」
「ほう、あのお方に直接……新人潰しというやつか?」
老兵は、片方だけの角を撫でながら目を細めた。
「……で、どうだった? あのお方は」
問いの意味を、伝令は測りかねた。
どうと言われても、魔王は魔王だ。
発する雰囲気は恐ろしいほどに冷たく、逆らえば命はない。
それ以上の何を答えればいいのか。
言葉に詰まっていると、老兵は低く笑った。
「昔はな、あんなお方じゃなかったのさ」
「……昔?」
「小さい頃は腕白でなぁ、よく城を抜け出しては叱られておられた。人間の菓子が好きだと言って、こっそり街へ下りたこともある……人と魔族が、いつか肩を並べる日を作るのだと、そう言って笑うお方だった」
本当にそうだろうか、と思う。
月を眺めても動かない横顔と、老兵の語る少年が同じ人物とは思えない。
「それが、いつからだったか……」
老兵は、渡り廊下の窓の外へ目をやった。
「あのディードリッチとかいう男が侍るようになってからだ……気付けば口調も目の色も、すっかり変わっちまった」
「……あの方が、何かを?」
「さあな」
老兵はそれ以上は言わなかった。
「口の軽い年寄りは長生きできん……お前も余計なことは考えんことだ。最低限を覚えて、あとは忘れる。それが、この城で長らえるコツよ」
肩をすくめ、老兵は持ち場へ戻っていった。
残された伝令は、渡り廊下の窓から、遠い山影を眺めた。
方角からしてドゥーダ山だろう。
あの上で邪竜が力を蓄えている。
姉妹の力が絞られ、村はやがて消える。
それを阻止するために、人間の一団が向かっているという。
順調だと自分は報告したし、計画は何ひとつ滞っていないはずだ。
なのに、なぜだろう。
この城の空気は、勝ち戦を前にした熱ではなく、じわじわと何かに侵されていくような、嫌な静けさに満ちている。
伝令は身震いして足を速めた。
考えるのはやめだ。
老兵の言う通り、余計なことは忘れる。それがいい。
——だが、その「忘れる」ことすら、誰かに都合よく仕組まれているのだとしたら?
そんな考えが頭を掠めたが、彼は慌てて、それを闇の奥へと押し戻した。




