領主3
*
「ああ、トーロ夫人は力になってくださったのね……ありがたいこと……」
ガレベーラは静かに涙を流した。その場で神に祈りを捧げる。
「それで、ラナンに案内してもらって、君が住んでいたところを見に行った。そこには、君が書き残した手本が残っていた。紙とペンを手に入れることは難しいから、破れた新聞紙の余白に、小枝の先に炭の粉をつけて字を書いたとペルラが教えてくれた」
文字のほかに、単語もいくつかあった。
ラナン、ペルラ、ガレ。
ありがとうございます、ごめんなさい、ごきげんよう、おやすみなさい、あいしてる。
「それらは確かに、美しい君の手蹟だった……」
そう言いながら思い出したのか、目頭を押さえ、頭を抱えてしまったグウィディウスに、ガレベーラは立ち上がってそっと腕に手を添えた。
「王都ではね、辛いことも多かったけれど寂しくはなかったの。そして、今日まで来られたのもあの日々があったから。私は、あの暮らしがあったら、幸せの大小は豊かさや貧しさの問題ではないと知ったわ」
「理屈では分かっていても、それを肌で理解するのはなかなかできることじゃない」
潤んだ瞳で、グウィディウスは眩しそうにガレベーラを仰ぎ見る。
「トーロ夫人にはわたくしも何度もパンを頂いたのよ。さすがにお屋敷には入る勇気はなくて、ラナンがもらってくれてきたものだけれど」
「本当に、トーロ夫人には色々と驚かされたよ」
「貴族のお屋敷で施しをして下さったのはトーロ夫人だけよ」
「最初は友人令嬢を頼ったそうだね」
ガレベーラは視線を落として、
「……思い出したくない過去だわ」
「貴族は、都合に合わせて他人に過関心であり、無関心にもなるからね。身分を笠を着て、私利私欲のため、虚栄心を満たすためだけに存在している。ろくでもない者ばかりだ」
「そう決めつけるのは早計よ。でも、人を見かけで判断することはしてはいけないわね。見かけの話だけではないわ。生まれや育ち、身分で卑しいと決めつけるもの問題よ。高貴だから、身分が高いから、素晴らしい人間とは言いがたい」
かつて公女だった頃のガレベーラは、わかったつもりでいただけで、実際は何もわかっていなかった。
今思えばおかしいほどに、あの頃のガレベーラは見紛うことなきちゃんと『貴族』だった。
「貧しい者へ、してあげた気になって、感謝を額面通りに受け取って。傲慢で愚かだった」
「……孤児院の院長が、とても悔いておられた」
「いいえ、院長にはよくして頂いたわ。わたくしが何も現状を知らなかっただけよ」
ガレベーラは再び祈りの形をして、悲痛な顔になった。
「大丈夫だ。君は生きている。……元気で、たくましく、美しく、生きている。院長もご安心なさるだろう」
それから少しの間、互いにこれまでの色々をかみしめるように黙っていた。
やがて、グウィディウスがゆっくりを話を再開する。
「ラナンから聞いた人買いの馬車が南へ向かったことがわかって、ここ数年は南を中心に調べていたんだ。けれど何の手がかりも得られなかった。だから、リビの村で君を見つけたのは本当に偶然だった。親友の……君に話しかけた騎士がいただろう? あいつの手柄だ」
「ねえ、グウィ……まだ教えてもらってないわ。どうして騎士団に……」
「もちろん、君を探すためだよ」
「それでも……! 近衛ではなく? 騎士団は……危険な外地に行けなくてはいけないのに」
「外地に行ける方が都合がよかったんだ。それに、小さい頃から城の中ばかりで、今さらまた城を守るなんて飽き飽きだよ。第一、王城や王族を守る近衛のなかに王子がいるなんておかしな話、聞いたことがある?」
グウィディウスは笑った。ガレベーラは笑えない。
「でも、あなたは剣が嫌いだった。それに、留学までしたのに……」
「それがね、意外なんだ。ガレベーラのことを抜きにしても、騎士団は案外居心地がよくて、僕は今をかなり気に入ってるんだよ。今では剣の腕もなかなかのものだしね」
幼い頃から、剣術の指南役は常に騎士団の団長であった。
今の団長にしても、留学前までさんざん悪態をつきながら稽古を受けていた師である。
グウィディウスが剣の道に本気になるや、他者との差は自然と開きだした。
もちろん、寝る間を惜しんで努力もした結果だが。
「……ええ、そうね。隊長を任されるくらいですもの」
「まあ、そこは王子であることを多大に斟酌してもらってはいるけれどね」
「わたくしは、あなたの人生を……何度狂わせれば済むのかしら」
ガレベーラは声を殺していたが、しかし瞳からははらはらと涙が粒になって零れていく。
自らを責めているのが痛いほどに伝わってくる泣き方だった。
「……だから、君はギーであるふりをしたの?」
「そうよ。もう関わってはいけないと思ったの。ガラベーラはもう生きていない方がいいと思った。けれど、この前、後になってとても後悔したの。せっかくこんなところまで探しに来てくれたのに、と」
今度はグウィディウスは椅子から立ちあがり、ガレベーラの傍らに膝をついた。
慌ててガレベーラも立ち上がる。
「やめて、身分が……」
「ガレベーラこそ、やめてくれ。身分で人に差をつけるのはおかしいと思っている君こそがそんなことを言っていいのか」
ガレベーラは二の句を告げず、言葉に詰まった。
「最初に言っておくけれど、これはガレベーラが責任を感じることではないからね」
グウィディウスはそっとガレベーラの手を取る。
傷や荒れが目立つ、労働者の手だ。
遠慮がちに引こうとするガレベーラの仕草が、それを恥ずかしいと思っていることを意味している。
「僕は、王籍を離脱した」
「王籍を!? どういうことなの!」
「さすがに平民とはいえないけれど、少し土地をもらって、今は、まあ、いわば領主だ。そこに屋敷を立ててラナンとペルラと暮らしている。二人は僕の養子にした」
「ラナンとペルラを……!? そんな! そこまで頼ろうと思っていなかったわ! そんな、厚顔なこと……」
ガレベーラは青ざめる。
「もし叶うならば、どなたか親切な方のお屋敷で雇ってもらえたらくらいに思っていたのよ……」
「ガレが二人といたのはそう長い間のことではないのに、彼らは貴族のマナーをよく知っている」
「時間だけはあったから……。知っていれば、いつか仕事に就けるんじゃないかと思ったの」
「教えられたこと以外にも、ガレベーラがいなくなっても彼らは学びを続けたんだ。字も計算も」
「とても賢い子たちよ。けれど……」
「母親は娼婦だったと聞いたけれど、特にラナンは佇まいに品があるね。どこぞの貴族の落胤なのかもしれない。剣術より学問の方が好きなんだってさ。僕に似てる。跡継ぎには十分すぎるくらいだ」
「……跡継ぎ?」
「今のところ、僕には子どもがいないし、これからも予定はない。なにせ、僕は独身だからね」
「独身、なの……まだ?」
「ああ。それはガレベーラのせいともいえるね」
「そうなのね……。やはり、わたくしとの過去があなたに傷を……。当時、それだけはならないように行動したつもりだったのに」
「ありがとう。僕の名誉一番に考えてくれて」
ガレベーラは涙を零しながら、必死に首を横に振る。
もし、ガレベーラがグウィディウスの名誉などを気にしなければ、王都に一人放り出されたときに、すぐさま誰かに助けを求めていただろう。
しかし、未婚の令嬢の醜聞というものは、ときに死刑宣告よりも残酷だ。
正式な婚約をしていたわけでもなかったのに、それでも枷になったのならば、逆に第二王子の婚約者という肩書があれば、それがガレベーラを守ったかもしれない、とグウィディウスは遅い後悔をした。
グウィディウスは、またガレベーラの許しも得ずに、彼女の身体を自分に引き寄せた。
「グウィ、いけないわ……」
ガレベーラが抵抗を見せたので、抱く手に力を込める。
「……ごめん。君のせいだなんて嘘だ。僕自身のせいだよ。……僕に、けして忘れられない人がいただけだ」
ガレベーラの耳に囁くように言う。
絞り出すように言う。
「ガレベーラを忘れられないだけだ……」
どのくらいそうしていただろうか。
廊下でかすかに物音がして、二人はようやく抱擁を解いた。
「ガレ、王都に帰ろう」
グウィディウスの腕にさらなる開放を求めて、ガレベーラはゆっくりを首を振る。
「ありがとう。でも、帰るところなんてない。もう、わたくしは、泥水を飲んでしまった。令嬢には戻れない」
「そんなことはない! それに……王都にいる兄妹を迎えに行くために、ギーは頑張っていたと聞いた。二人に会いたいくはないの?」
少しだけガレベーラの気持ちが揺れる。
それでも、王都はもはや遠い夢のような場所だ。
リビでの暮らしは、ラナンやペルラのためであったことは確かだが、今になって思うと、二人の存在は幻のように儚くもあった。馬車で迎えに行くことも共に暮らすことも、現実的には手に届かないとはわかっていた。
「……あの子たちが今、あなたのもとで健やかであるなら、もう十分すぎるわ」
グウィディウスは軽くため息をついた。
「わかった。君がそれほどにリビが好きで、リビの村に残りたいというのなら、僕も移住しよう」
「グウィディウス!?」
「騎士団もやめて村で仕事を探すよ。僕みたいな者に働ける場所があるかどうかわからないけれど」
「ばかなことを言わないで!」
「……それとも、階級社会ってやつは、ギーを労働力として、僕に買わせることもできる。……そんな真似をしても?」
「ひどい……」
その時、扉が叩かれ、「グウィディウス様」と外からペスロの控えめな声がかかる。
グウィディウスは小さく悪態をつくと、長い瞬きをした。
それまで感情的だったグウィディウスの顔が、いつもの表情に戻った。
「ガレベーラ、悪いんだけれど、今日の僕はあまり時間がない。実は、王都を飛び出してきたようなものなんだ」
ガレベーラは、そこでようやく気づく。
「……もしかして隊商の?」
「ああ。間に合ってよかった。神父様とイオに、ガレベーラに何かあれば知らせるように頼んでいた。気を悪くしないでほしい。君を見つけてから、人に定期的に君の様子を見に行かせていたことも」
「そう……。神父さまも、ご存じなのね。わたくしのこと……」
「すまない。けれど、詳しい素性までは伝えていないよ」
「いいえ。心配をかけていたのね。むしろ謝らないといけないのはわたくしだわ」
「謝ることなどない。……でも、正直なところ君が王都に来てくれるともっと安心出来るんだけど」
急がなければならないというので、グウィディウスとは西都で別れることになった。
別の部下と共に先に王都へ戻り、ガレベーラはまたペスロの馬でリビに送ってもらう。
「やっぱり妬けるなぁ。まあ、ほんの少しだけれどね」
グウィディウスは苦笑まじりに言った。
ガレベーラは、昔もグウィディウスの側にいたペスロの存在を思い出していた。どこかの貴族の子息だったはずだ。
帰り道も、ペスロとの間に会話はなく、しかし、リビでガレベーラを馬から降ろすと、
「グウィディウス様は、本当に、文字通り、寝る間も惜しんで、あなた様をお探しになられていました……」
そう言い残して、また遠い王都へ戻っていった。




