領主1
朝焼けの空の下に馬が二頭と、そこにグウィディウスの従者ペスロが控えている。
冬の朝は馬も人も白い息がやたらと目立つ。
「西都まで行く。一刻くらいかかるけれど馬で走るのは君は平気だろうか」
貸した外套の頭巾で顔は隠れてしまっているが、無言でこくりと頷くガレベーラは、すっかり気が抜けてしまったようで、手伝われて、馬上にのぼるのもやっとというふうだった。
支えるようにして、ペスロが同じ馬に乗る。
いくら放心状態とはいえ、ペスロに身体を預けきっている様子にグウィディウスが苦笑する。
「なんだか妬けるな」
傍目には、衰弱した貧しい少年を保護しているようにも見えるが、実際にペスロの胸にいるのは女性であり、グウィディウスの焦がれた人なのだ。
「では神父様、ギーをお借りする。イオ、少しの間頼まれてくれるかな」
馬上の騎士を見上げて、神父とイオはしっかりと頷いた。
*
西都はリビから一番近い町である。
ガレベーラは、カシアの話に聞いたことならごまんとあったが実際にやってきたのは初めてだった。
王都には遠く及ばないまでも十分に華やかな土地だった。
一行が着いたとき、朝日は昇り、広場にはすでに朝のにぎわいが存在していた。
たくさんの物売りが出ている。
案内された宿は、リビの宿屋よりは数段格式が上だが、グウィディウスの身分にはとうてい似合わない中程度くらいのところと思われた。
しかし、中は以外にも落ち着いた雰囲気で静かだ。
宿の主人らしき男が、「おかえりなさまいませ」と恭しく頭を下げたくらいで、廊下で他の客にすれ違うこともなかった。
部屋は三階だった。
むき出しの板張りの床に、華美でも豪華でもない簡素な設えで、それでも、久しく見たことのないまぶしいほどの清潔感に、ガレベーラはいたたまれなくなる。
入るのをためらったのが、グウィディウスにはわかったらしい。
「僕らは今から少し仕事の打ち合わせをしなければならないから、ここで少し待っていてくれるかな。そして、これはギーの自由なのだけれど、宿の人に言えば風呂を貸してもらえる」
ガレベーラはとっさに顔を赤くして下を向く。
「ああ、すまない。君の名誉のために言うけれど、今のギーが決して悪いわけじゃない。僕らだって、ひとたび任務に出れば風呂なんかめったには入れない。川で水を浴びるし、服だって着たきり、髭だってのびっぱなしだからね」
ペスロに同意を求めるように言えば、ペスロも、
「ひどい時なんて、おそらくギー様のご想像を超える悲惨さですよ」と肩をすくめる。
「ただ、僕は君と落ち着いて話がしたいから、君がなにか余計なことで気を揉むくらいならと思っただけの、おせっかいな提案だ。気にしないで」
ガレベーラが返事をする前に、
「まあ、ひとまず、宿の者を部屋に寄こすから、用事があれば言うといい」
そう言って、居心地の悪い思いで立ち尽くしたままのガレベーラを部屋に残して出て行った。
「失礼いたします」
すぐに、十三、四の少女がやってきた。
まるで洗練されていないそのいで立ちから、地元の、この宿の本物の小間使いかもしれない。
ガレベーラは、もしかするとグウィディウスが、例えば王城の侍女や城仕えの女性を連れてきているのかもしれないと思ったのだが。
「お客さま、湯あみなさいますか?」
「迷惑ではなければ、ぜひお願いします」
「では、ご用意します」
素朴な少女は、すでにグウィディウスから事情でも聞いているのか、ガレベーラのみすぼらしい身なりにも、男の格好の人間が女の声で答えたことにも驚くことはなかった。
「……あの、わたしも準備を手伝います」
「え!? いえ、大丈夫です! 仕事ですから」
ガレベーラは少女と、手伝う手伝わないで押し問答を繰り返した結果、自室ではなく、一階の部屋で湯を使うことで折り合いをつけた。
三階まで大量の湯を運ぶなど大変だし、なによりガレベーラがそれにふさわしい身分でなくなってからずいぶん経つ。
《《される側》》でなくなって、もう長いのだ。
大きな木桶になみなみと張られた湯につかるのは何年かぶりだった。
リビでは女であることを隠していたので、村の風呂屋にも行けなかった。
昔は、イオが親方に小遣いをもらうたびによく誘われたものだが、断り続けているうちに、今では「風呂嫌いのギー」、さらには「実はでべそのギー」とかわかられる種になっている。
夏はこっそりと川で水を浴びることも多かったが、冬はイオが作ってくれたかまどで湯を沸かし、身体を拭いたり、手桶に足をつけたりするのがやっとだった。
久し振りの湯は、あまりの心地よさと緊張の緩みで自然と涙があふれてくる。
もはや、ガレベーラは我慢しなかった。
あえて何も考えないことにして、しばらくの間、溢れ出る涙をただただ、体を包む湯の中の一滴として溶かしていった。
小間使いの少女は、着替えの服を置いて行った。
王都に乱れ咲くような極彩色ではなく、野山のもので染色した色合いの、ワンピースとエプロンだった。
上質な生地ではないが、誰かの着古しというわけではない。
しかし、グウィディウスと同席するには最低限の、恥じずにいられるドレスといえる。
「本当はズボンの方がいいんだけれど……なんて、贅沢な悩みね」
ついさっきまで着ていた服を畳む。
何度も、何度も洗って、それでも汚く、粗末な服。
またこれを着ることになるかもしれないし、ならなかったとしても、こんなものですら、教会の子どもたちが大きくなった時にまた用立てられるのだ。
鏡を見る勇気はなかったが、鏡台に並べられた櫛には手を伸ばしてみた。
短い切りっぱなしの短い髪に、何年かぶりの櫛を通すと、気持ちが少しばかり浮き立ったのは、失くしたつもりになっていた心を思い出したからだろうか。
部屋に戻ると、見計らったように扉が叩かれた。
「ギー? 入ってもいいかな」
ガレベーラがドアを開けると、グウィディウスの嬉しそうな顔があった。
「ああ、着てくれたんだね。さて、僕のセンスはどうだったかな」
「ご用意下さってありがとうございます。グウィディウス様に失礼がないよう、遠慮なく着させて頂きました」
「よしてくれよ、そんな話し方」
グウィディウスは無理に笑顔を作ろうとしてか、妙なふうに口許が歪んでいた。笑っているのに、泣いているような。
その表情にガレベーラは胸が痛くなった。
「……承知しました」
深く頭を下げて、
「身分をわきまえぬ振舞いとは重々承知しておりますが、昔のよしみでお許しください」
「ああ、頼むよ」
顔をあげて、
「グウィディウス、しばらくぶりね」
ガレベーラの言葉に、グウィディウスの目の淵がみるみる赤くなっていく。
「……グウィ、元気だった?」
「ああ、なんとかね。過去には、死ぬより辛いんじゃないかと思う時間もあったけれど、今は最高に……」
そこでいったん言葉を切ってから、間をおいて、
「……ガレベーラ、なんだね?」と確かめるように窺った。
「ええ」
互いに声は震えていた。
「ガレベーラ……」
「ええ、そうよ。……見違えたでしょうけれど、そうなの。ガレベーラなの」
「ばかだな。あの朝、遠目でもすぐにわかった。間違いない、君だ、って」
グウィディウスは、一歩、二歩、と心のままに歩み寄って、許しを得ることなく、ガレベーラを抱きしめた。
ガレベーラも、抱擁を咎めることはしなかった。
たくましい腕に抱きしめられるのは初めてで、だが今には羞恥など全くなかった。
言いしれない安心感が、体の芯から水紋のように手足まで広がっていくのがわかる。
感動はやがて表皮まで届き、ガレベーラの肌が粟立つ。
「ガレ……」
グウィディウスはガレベーラを解放すると、椅子に掛けるよういざなった。
そして、自分も向かいに座る。
「さて、何から話そうか」
「あの、私から先でもいいかしら。いきなりで申し訳ないんだけれど」
「ラナンとペルラの事かな?」
「ええ、そう……、あの、二人は……」
教会で手渡された手紙は、ラナンとペルラが自分たちで書いたものだった。
二人とも元気でいること、今はグウィディウスの屋敷で世話になっていることが書かれていたが。
「心配しないでいい。僕の屋敷でちゃんと育てている」
「屋敷? どういうこと? 王城ではないの? いえ、ともかく二人はあなたに無事に会えたのね? ああ、よかった! 神に感謝いたします。でも、あなたには無理なお願いをして悪かったわ。ねえ、それより騎士団ってどういうことなの? なぜあなたが?」
無口だった『ギー』から矢継ぎ早に飛んでくる質問に、グウィディウスは呆気にとられた後、しょうがないなという顔で笑う。
「僕も同じくらい、君のこの三年間のことが知りたいんだけどな」
「あ、ご、ごめんなさい。つい……」
「いや、いいんだ。僕が知る元気なガレベーラに会えて嬉しいよ」
肩をすくめてそう言ってから、「だから、先に聞く権利をガレに譲ろう」
そう言って、グウィディウスは胸に手を当てる。
追悼の意を表し、
「まず、御父上カトル公のことは本当に残念だった。お悔やみ申し上げる。……それすら僕はまだ君に言えてなかったんだ」
そう言われてひさしぶりに、ガレベーラは久しぶりに亡き父を思い出した。
父の死はガレベーラにとって、もはやとてつもなく遠い過去の出来事だった。
「何度も君に手紙を書いた」
「嘘よ、ずっと待っていたのに一通も届かなかったわ」
「僕もだ。君からの便りが、ある時から届かなくなった。カトル夫人に握りつぶされていたらしい」
「お義母様が!?」
「僕がもっと早くそのことに気づいていれば、こんな事態を招かなかったんじゃないかと、何度も自分をなじったよ」
「そんな……! けして、グウィのせいではないわ」
グウィディウスはガレベーラの言葉に救われたような面持ちになって、ありがとう、と何度か繰り返した。
それでもまだ自分を責め続けているのがわかり、ガレベーラは苦悩に顔をゆがませる。
「大陸にいた僕は何もかも知るのが遅くて、知った時にはすでに君の行方は知れなくなっていた」
その頃グウィディウスは何も知らず、アルディウスの、ガレベーラを側妃候補として登城させるという機転も裏目に出た。
「君がいなくなったとわかってもすぐに帰国できなかった。兄上とペスロに君を探すように大陸から手紙で頼むのが精いっぱいで……。本当にすまなかった。結局、業を煮やして帰国したのは、君が辺境伯に嫁ぐために屋敷を追い出されて北行きの馬車から逃げ出したときからもう半年以上が経っていたよ」
「……ごめんなさい、あの頃の私は本当に必死で……いろいろ考えが及ばなかったの」
「いや、ガレが謝ることではないんだ。帰国した僕はひどく焦っていた。だから少々無理を言って、近衛の兵を借りて城下の捜索をした。そしてそれを、君は追手だと勘違いしたんだね? だから王都から逃げた」
「……つまりあの時、街で一斉にカトル家の姫を探していたのは、あなたの捜索の手だったと言う事?」
「ああ、そうだったみたいだ。後になってわかったことだったけれど」
「そうとは知らず……わたくしは……ああ、ごめんなさい」
グウィディウスはゆっくり首を振る。
「いや、そもそもはガレベーラが大変なときに傍にいて力になれなかった。僕の責任だ」
「いいえ、大陸にいたのだもの、責めたりできないわ」
「……捜索だって僕自身が先頭に立って探していれば、もっと早くに君を見つけられたかもしれない。逃げ出さずにすんだはずだ」
「無理よ。グウィディウスには簡単に動けない立場にあるもの。それに、王子殿下があんな場所に足を運んでいいわけが……、ねぇ、もしかして、行ったの?」
「階段下の家のこと? ああ、行ったよ」
とたんにガレベーラは恥ずかしくなった。
恥じることではない。
実際に、あの場所で立派に生きている人たちがいるのだし、むしろガレベーラは恥じてはいけないのだ。あの場所があったからこそ生きながらえたのだから。
「でも、そうだね。僕は王子だから、城下の貧困街にはなかなか近づかせてもらえなかった。あの階段下に行ったのはずいぶん後になってからだ。それまでは僕の行ける範囲でひたすらに君を捜していた。そうしているうちに、見事な銀の髪が売られているという話を耳にした」
「髪……わたくしの……?」
グウィディウスは優しいとも悲しいとも言える微笑みで、ゆっくりと頷いた。
「売られた君の髪を見た時の、僕の気持ちは表現しえない。喜びと悲しみ、憐みと憤りと、もう何もかもがごちゃまぜの、おそらく僕以外の誰にも想像できないだろう感情だ。それでも喜びが他のどれよりもほんの少し多かったよ。なんせ、君の手がかりを得たのだから」
しかし、喜んだのも一瞬で、そこから先、捜索はまた暗礁に乗り上げた、とグウィディウスはまるで今がその時かのように項垂れた。
────そして、語り始めた。




