牛飼い姫3
「ちょっと! 邪魔よ! どいて!」
廊下の床をブラシでこすっていると、カシアが金切り声をあげ、ガレベーラを押しのけて通り過ぎて行った。
「ぐず! のろま! 私の部屋の掃除は結構よ。ドレスやネックレスを盗られたら困るもの!」
ガレベーラは黙って深く頭を下げた。
「そんな服で騎士様の前に出るなんて恥ずかしくないのかしら? 信じられないわ!」
カシアは、グウィディウスが帰った次の日こそ宿に泊まっている王都の騎士を見たとガレベーラに興奮気味に自慢してきた。
一張羅を着るのをこれ見よがしに手伝わされ、張り切って出かけものの、グウィディウスはもう出立した後だったとがっかりして帰ってきた。
しかしその後、その騎士がギーのことを聞きまわっていたと知るや、態度は攻撃的になった。ギーが本当は女だと知っているからだ。
「あんたは一生うちの使用人なんだから。家だって与えて住まわせてあげてるのに、勝手に出ていくなんて許されないわよ! 恩をあだで返すつもり!?」
悩みの種はカシアだけではない。
グウィディウスが村に来てからというもの、ガレベーラは暮らしにくくなった。
あることないことよくも悪くも色々に噂される日々だ。
さすがに本来の素性や実は女性であることにたどり着くような筋のものはなかったが、どれも居心地のいい話ではなかった。
ましてや、男色家の貴族に買われていくとの誤解は、「男でも構わない」という輩の、これまで、男ならせずにすむと思っていた身の危険にもさらされるようになってしまった。
安全を守るには心もとない小屋は、イオが補強してくれたし、イオが泊まりこんでくれたこともあった。
噂を逆手にとって、「実はものすごく強い護衛が密かにギーについている」との神父の方便もあって、そのうちに怖い思いをすることは少なくなっていった。
「はあ、冷たい」
冬になり、朝が辛い時期になった。
グウィディウスが来たのは、秋になるかならないかの頃だったので、かれこれ三月ほど前になる。
ガレベーラはグウィディウスの迎えが来ないことにほっとはしていたが、だんだんと時が経つにつれて、ならば変な意地など張らずに素直に話をすればよかったと思いなおしていた。
ラナンとペルラはグウィディウスに縁を繋げることができたのか。
トーロ夫人の助力は得られただろうか。
あの階段下に誰か人をやってもらって、二人の様子を知ることができないだろうか。
せめて手紙をことづけることくらいは許されたのではなかっただろうか。
虫のいい考えばかりが浮かんだあとは、決まって思考はどんどん暗い方へ向かう。
ラナンとペルラの存在を、もしグウィディウスが知っていたら、きっとささいなことでも教えてくれていただろう。
そもそも、あの時は必死のあまり、縋った藁だったにしても、王子であるグウィディウスに浮浪児の保護を頼むなんてどうかしていた。
その身分差も含め、グウィディウスは、ガレベーラの貧しさや惨めさを目の当たりにして、大きな衝撃を受けたには違いない。
グウィディウスは上流階級のなかのさらに最上位にいる人だ。
王都に住む中流階級の人間とですら一生交わることもない。
ガレベーラの現状にがっかりしたことは違いないし、少なからずかかわりがあったことさえ不愉快に思ったかもしれない。
だとしたら、やはり最後までギーであり通したのは正解だった、と思う。
グウィディウスがくれた本は剣術の指南書のような本で、ガレベーラには何のおもしろみもなかったが、それでももう三度は読んだ。
しおりが挟んであったところを見ると、読んでいる途中でくれたのかもしれない。
────それにしても、騎士団に入るなんて、なぜ。
「……陛下もアルディウスも、今の王国は安泰ではないということなの?」
ガレベーラはため息をつく。
「ここにいると何もわからない。王都の状況はもちろんのこと治世か乱世かさえ伝わってこない……」
村の人たちにとって、国の中枢などなんの興味もない、遠い遠い雲上の世界の話なのだ。
税や制度、物流や人の流れはここにもあるのだから全くの関わりがないことなどないと説明したところで、理解してもらえないだろう。
知識と教養がないからだ。
ガレベーラは、時間のある時に教会にいる子どもたちに字を教えている。
イオが一緒に習うこともある。
全土が豊かになるには、教育を施すことが必要だと思うようになっていた。
子どもたちが当然に、平等に、教育を受けられるように。
グウィディウスに、せめてそんな理想を託せばよかったと後悔した。
この国を作る一番近いところにいる人だったのに。
*
一年の終わりは、西都に最大の市がたつ。
西都だけでは宿が足りなくなり、少し遠いがこのリビにもあぶれた客が長く滞在する。
おかげでガレベーラとイオは、この時期になると宿屋の手伝いに毎日駆り出されるのだ。
今回宿泊する隊商は大人数で、店にあるだけの酒を飲み、店のものすべてを食べつくす勢いで、毎晩が祭り騒ぎだった。
皿洗いも給仕も、仕事が追い付かない。
「おい」
てんてこまいのガレベーラの腕をつかむ男がいた。
酒で顔を赤くした小太りの男は、金回りのよさそうな身なりで、この隊商の長である。
「お前、名はなんてんだ?」
ガレベーラは身を固くして、言いよどんだ。
隊商長の目に、明らかに醜い欲情の色が浮かんでいた。
「ここの使用人か?」
小さく首を振る。掴まれている腕が痛い。
ねっとりと上から下まで舐めるような視線にさらされてから、赤黒い顔をゆがませた下卑た笑いと共に、
「昨日も思ったんだがな、瞳の色も髪の色もいいときた。連れて歩くには最高級品だ。あとで高値をつけて貴族に売ってもいいしなぁ」
「ギー! 騎士にはふられたんだろ? せっかくのいい機会じゃないか!」
それを聞いた酒を飲みに来ていた村人が大声で笑う。
隊商長は眉をぴくりと動かし、
「騎士だと?」
「ああ、なぁに、こいつは前に他の手が付きそうだったんでさぁ。それが王都の騎士様ときたもんだから、ダンナ、こいつはなかなかの拾いもんですぜ」
「へえ! 貴族の目にも留まるとは上玉って証だ。こんなところでお宝に出会えるとは! 決めたぞ。ここを発つ時、連れて……ぎゃあ! おい、てめえ! 何すんだ!」
隊商長がいきなり叫んで立ち上がる。イオが運んでいた酒をぶちまけたのだ。
「すみません! すみません!」
イオは何度も謝り、布巾で隊長の濡れた服を拭く傍らで、ガレベーラに目配せを寄こす。
宿屋の主人も駆けつけてきてイオと一緒に謝ったかと思うと、ガレベーラを厨房に逃がす手伝いをしてくれた。
ガタンという大きな物音と言い争う声が聞こえて、耳をふさぐ。
厨房の奥に逃げ込んだガレベーラは小さく震えた。
ガレベーラはあらゆることに、無力だった。
「あのオヤジ、隊商が来た日から毎晩、ギーのことを色目で見てたんだぜ」
どれくらい経っただろうか。
隊長に殴られたのか、頬を晴らしたイオがやってきた。
「……ごめん! イオ、大丈夫か!?」
「平気、平気。親方の拳に比べりゃこんなのなんてことないさ」
「僕、全然気づかなかった……。助けてくれてありがとう、イオ」
「今夜は、教会に泊めてもらおう。あの小屋じゃ、やつらに蹴破られたらおしまいだ」
「平気だよ。昨日までもなんともなかったし」
「ばあか。ギーにその気がないのを隊長もわかっただろうから、逃げられないうちにって、夜の間に無理やり攫って商品にされちまうぞ」
イオがきつく言うので、しぶしぶ教会に向かったが神父は喜んで迎えてくれた。
毛布を借りて、イオと二人、神の前で休む。
イオはすぐにいびきをかいて眠りこけてしまったが、ガレベーラはなかなか眠れなかった。
祈りをささげていると、神父が顔をのぞかせた。
「……この世界に、生きていていい場所を見つけることは、こんなにも辛く、苦しいことなのでしょうか」
「ギー」
「いつも、どこにいても、わたしは災いのもとでしかありません」
言いながら、涙が出てきた。
「……平穏な生活を望むことすら、もはや許されないのでしょうか」
ガレベーラの垂れたこうべを神父が優しく撫ででくれる。
「ギー、大丈夫ですか」
「神父様……お許しください。もう楽になりたい……」
「辛いのは、あなたが行く道の途中だからです。あなたの場所に、まだたどり着いていないからです」
ガレベーラの道はどこまで続いているのだろう。
たどり着けば、そこに安住はあるのだろうか。
「誰しも皆、人生の目的の地に行かなくてはならない。それは、あなたの隠れた心の意志であり、同時に神の意志でもあるのですから。その時は、導かれるままに行くのですよ」
神父に頭を撫でられているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
どれくらい経ったか。
まるで有事のときの勢いで近づいてくる馬の蹄の音に、ガレベーラは目が覚めた。
「ギー!」
厳粛な神の前に、勢いよく音を立てて扉が開いた。
そこにいたのは、グウィディウスだった。
ひどく険しい顔で、入口に立ちはだかっている。
外は夜明けが近い時刻らしく、すでに白んでいた。
グウィディウスの髪は乱れて、肩でする息が白い。
「……グウィディウス、様!?」
驚きのあまり、ガレベーラはその場で立ち上がった。
毛布がばさりと足元に落ちる。
横になっていたイオが目覚めたらしく、上体を起こす。
寝ぼけまなこで左右をきょろきょろとしてから、
「……んあぁ、ギー……どうした……? あ、騎士様?」
「ああ、お越しになられましたか。お待ちしておりました。神よ、祝福に感謝いたします」
神父もやってきて、恭しい礼とともに祈りを捧げた。
「ギー、悪いがついて来てもらう」
「……え?」
つかつかと教会内に入ってきたかと思うと、ガレベーラの手を取り、引っ張っていこうとする。
「お、お待ちください……! あの、どうして……、今から牛の世話が……」
「イオ、悪いがギーの仕事の代わりを頼めるかな」
突然の指名に、イオは驚きつつ、あわてて姿勢を正す。
「は、はい! わかりました! ま、ま、まかせてください! ギー、牛たちは任せとけ!」
「いえ、そんな……なぜです! どういうことですか!?」
「ギー」
神父の優しい声がする。
「初めて見た時、あなたはぼろぼろになって倒れていました。もちろんそれが何びとであれ、私は迷うことなく助けていたでしょう。しかし、あなたの姿を見て、神のお導きだと思いました。神が迷えるこの方のもとへ私を遣い賜うたのだとすぐにわかりました。……あなたは光に包まれていた」
「そんなわけが……」
ガレベーラは何度も首を振った。
「あなたはまだ今、道の半ばなのだと私は言いましたね。さあ、今こそ目指すのです。あなたの行く先へ」
「神父様……? 一体、私にどこへ行けと言うのです!」
「あなたが行くべき場所ですよ」
「さあ、ギー。とにかく来て」
神父との話が終わるのを待っていたのか、グウィディウスがまた手を引っ張った。
声も行動もいつものような優しさはない。
「嫌だ! 嫌です! 放して! 私はもうガレベーラではないの!」
「大丈夫。なにもこれきりにはしない」
「イオ、助けて!」
「え、いや……あの、それは……」
イオはおろおろと、視線の先をせわしなく動かしている。
グウィディウスは大きなため息をついて、外套のポケットから何かを取り出した。
「これを」
差し出されたのは一目見ればわかるくらいの上質な封筒だった。
「なに……? 手紙?」
「本当はもっと落ち着いて渡したかったのだけれど」
「……私、に?」
今さら、誰からの、どんな用件が書かれているというのか。
おそるおそる手に取って裏返してみると、封じ目に、赤い封蝋があり、その下の名前を見て、とうとうガレベーラはその場で泣き崩れた。
「ラナンもペルラも、二人とも君に会いたがってる」




