牛飼い姫2
「昨日、見たわよ。仕事をさぼって休憩していたでしょう」
ガレベーラが屋敷の掃除をしていると廊下に立ちはだかる者がいた。
この屋敷の夫婦の娘で、名をカシアという。
年のころはガベレーラよりも三つほど下だ。
おそらく、街中でイオと話をしていたことを言っているのだろう。
「お母さまにいいつけてやるからね」
「申し訳ございません」
ガレベーラは頭を下げる。
「ああ、そうだ。明日は西都で市の出る日だから出かけて、たくさん素敵なものを買うの。あんたも荷物持ちとしてなら連れて行ってあげてもいいけど」
「今の時期は乳の出る牛がおりますので、私はそれを売りに行かなければなりません。せっかくですがお供はできません」
「なによ。ついてくるならドレスの一つでも買ってやろうかと思ったのに。あ、あんたは男だもの、必要ないんだったわね」
ガレベーラは、ため息をつきたくなるのを必死に堪えた。
「失礼します」とカシアをよけて、掃除の手を再開させる。
日々の家事はたいして苦ではない。
ただ、屋敷に入るとカシアがいるので憂鬱だった。
『新しいドレスを誂えた』
『新作の帽子を買ってもらった』
『おなかがいっぱいで全部食べられない』
『甘いお菓子をたくさんもらった』
『パーティーで素敵な男性と知り合った』
『西都で一番の金持ちの家の息子と結婚の約束をした』
カシアの自慢話はきりがなく、それ以外にもガレベーラの言動に難癖をつけてくる。
かつての令嬢としての暮らしていたときの着るものや持ちものをはじめとする暮らし方と、カシアのそれは比べ物にならないにしても、この村では十分に金持ちの部類である。
はじめこそ、けして意地悪な娘ではなかった。お菓子を分けてくれるくらいの親しさはあった。
それが、ある時カシアにガレベーラが実は女であると知られてしまって、それからはいいからかいの種になったらしく、顔を見れば嫌味ばかり。
『ギー』は男であるし、かつ使用人である。
身分の違いはわきまえている。
同年代の同性として、張り合われても困るのだ。
それでも、苦労も悲しみもないカシアに、うらやましい気持ちがないわけではない。
だから、そんなときはできるだけ楽しいことを考えるようにしていた。
いつか労働の対価として給金をもらえる仕事に就くこと、住める場所を得ること。
いつか王都からこの村までの三人分の馬車代を貯めて、ラナンとペルラを迎えにいくこと。
三人で食べ物に困らない暮らしをすること。
たくさん本を読んであげること。
ペルラの髪にかわいい飾りをつけてあげること。
カシアのような派手はドレスはいらないけれど、清潔な生地で服を仕立て、レースをふんだんに縫いつけ、刺繍をめいっぱい刺した洋服をラナンとペルラに着せること。
そんなことを考えながら、ガレベーラはひたすらに床をこすり続ける。
*
いつもと同じに早く起き出し、ガレベーラは牛を一頭ずつ小屋から連れ出して、水を飲ませる。
そのうちに空がぐんぐん白みだし、草がいきいきと風に泳ぎ出す。
「おはよう。調子はどう?」
牛たちも山羊も変わりなく、元気な様子だ。ガレベーラに応えるような優しい声で鳴く。
いつもと変わらない朝だ。
ふいになぜか昔の癖が出てしまった。
指で、胸元にある石に触れる仕草を、ガレベーラはかつてよくしていた。
そこを飾っていたペンダントはとうの昔にないが、今朝は久しぶりにそれを探してしまった。
ガレベーラがこの村へ来て、季節が巡るのはもう三度目だ。
予定通りならグウィディウスはもう帰国しているはずだった。
朝日が昇る。それを全身に浴びる。
「今日もいい朝だわ」
いつもと変わらない朝で、そして、いつもと変わらない一日のはずだった。
*
「重くは、ありませんか」
突然にかけられた声に驚き、その声色にもっと驚いた。
なぜ、どうして、とは思わなかった。
すぐに、あのときの騎士団だと思い当たった。
なぜなら、グウィディウスは、あの夜に懐かしい思いで見た騎士団の制服を着ていたからだ。
理由はわからなかったが、おそらくあの時の騎士にガレベーラだと気づかれて、王宮へ報告がなされたのだろう。
グウィディウスがなぜ騎士団の格好をしているのか。そんな格好で何をしに来たのか。
連れ戻しに来たのか、助けに来てくれたのか。
どちらにせよ、昔のようには戻れない。
昔のガレベーラを知るグウィディウスの瞳には、今のガレベーラはどんなふうに映るのだろう。
鏡など長い間見ていない。髪を梳かしていないどころか、櫛さえ持っていない。そもそも淑女たらん長ささえない。
ドレスも扇も、紅も、香油も。
ガレベーラが貧しくなって久しいが、美しくありたいと思う気持ちがなくなってしまったわけではないのだ。
こんな姿をグウィディウスに見られるのはつらかった。
グウィディウスと共に夢を叶えることはもうずっと昔に諦めてしまっている。望もうとしたこともない。
今のガレベーラが願うことと大切にしたいものは、今の暮らしの延長にある。
リズの村にあった貧しいけれど平穏な生活。それがまた、壊れていくのは絶望に近かった。
一体どうなれば、ガレベーラは落ち着いた暮らしができるのか。もはや、そう願う事さえ許されないのか。
グウィディウスはしかし、悪あがきだとは知りながら違う名を名乗ったガレベーラに、ガレベーラであることを強要しなかった。
まるで、ギーとグウィディウスはその日、初めて出会ったかのように。
再会でも邂逅でもなく、公子と令嬢でもなく、男と女でもない、ただのギーとグウィディウスかのように。
それなのに、『ギー』もグウィディウスも、なぜか涙を流し続けていた。
*
どのくらいをかけて帰ってきただろうか。
赤い屋根が見えた時、とてつもなく長い距離を歩いてきたようにも思えたし、あっという間にも思えた。
ガレベーラもグウィディウスも、道中、一言も話さなかった。
荷車のきしむ音と、たまに車輪が砂利を噛む音が聞こえるだけだった。
あとは丘を下るだけという場所まで来ると荷車を引っ張るのをやめる。
グウィディウスもそれに気づき、押す手を離した。
ガレベーラはぺこりと頭を下げた。
顔は見れずにずっと俯いていた。
「どうして? 君の屋敷まで行くよ。ああ、すまない。実は、今朝ここまで来て、君のことを見ていた」
家まで知られていて、しかも、姿を盗み見ていたというのか。
信じられない不躾な行動に、今度は怒りで泣きたくなった。同時にグウィディウスの優しさであるとも感じた。
相反する、矛盾した想いにガレベーラは心中は混乱するばかりだ。
「ああ、そうだ。ギーは字が読めるんだってね。ちょうど読み終わった本があるんだ。君にあげたいんだけどどうだろう、もらってくれるかな」
ガレベーラはいつかの騎士にしたのと同じように、答えはせずに黙って首を横に振る。
「どうして?」
もう一度首を振った。確かな拒絶を示したかった。
グウィディウスは埒が明かないと思ったのか、話を変えた。
「今、休暇中なんだ。明日までこの村にいる。また、会いにきてもいいかな」
ガレベーラは首を振る事しかできなかったが、グウィディウスがどんな顔をしてそんなことを言うのかが気になって、少しだけ顔をあげた。
切なげにガレベーラを見ていた。
記憶の中にある、たよりなさげだった少年は、立派な青年に成長していた。
背も伸び、体格もずいぶんたくましくなっている。
風に靡く金色の髪と、エメラルドの瞳は涙の後でまだ潤みを帯びている。気品漂う佇まいのなにもかもがガレベーラにはまぶしくて、静かに目を細めた。
仕事の始末を終えて、ガレベーラは井戸で顔を洗った。
何度もこすって、洗う。
気温は下がり始めていたし、井戸の水は冷えていたが、それで髪も洗った。
わしゃわしゃと乱暴に洗う様はまるで淑女とは程遠い。
白いと言われる頬が、高貴だと言われる銀の髪が、周囲に知られないように、ガレベーラがすすを顔や頭にこすりつけるのは日常になっていた。
きっと思っている以上にひどい見かけだったに違いない。
「ギー!」と呼ぶ声が遠くから聞こえた。
「ああ、イオ」
坂をすごい勢いで駆けてきたかと思うと、あっという間にガレベーラの小屋の前までやってきた。
かと思えば、転がるようにその場で仰向けで大の字に寝て、肩で息をしている。
「ギー……、よ、かった……」
呼吸がままならず、言葉にならないようだ。
陽は暮れかけている。こんな時間に珍しいし、そもそもこんな村の外れにまでやってくることはあまりない。
「どうかした? 慌てて」
やがて起き上がったイオは、井戸の水をがぶがぶと飲んで落ち着くと、
「宿に騎士様が泊ってるらしいんだけど、知ってるか?」
「……うーん、さあ、どうだったかな」
あからさまに歯切れの悪い返事だったにもかかわらず、ましてや聞いておきながら、イオはガラベーラの答えはどうでもいいようだった。
「それがさ、その騎士様がギーのことを村で聞きまわってるみたいでさ。神父様も聞かれたって言ってて。心配になって来てみたんだ」
「そ、そうなんだ? えっと、ありがとう」
「もし、買われたら行くのか? 男だぞ? どこぞの金持ちの奥様ならまだしも、いいのかよ、男の相手で」
「え? ああ……」
ガレベーラはイオの言わんとしていることがわかって、思わず笑った。
貴族の人間が金で春を買おうとするのは普通のことであるし、体のいい奴隷として、気に入ったみてくれの者を愛玩用として傍に置きたがるのも日常的に行われている。
「行かないよ。行くもんか」
「だったらいいんだ。しかし、ギーがたまにそうやって綺麗に顔を洗ったりすると驚くよ。まるで女みたいだもんな。考え方によっちゃ、綺麗な服着てさ、食べ物もたんとあるだろうし、そっちの方が幸せなのかなって思う。きっとふかふかのベッドだぜ! まあ、動物と同じ扱いをされるって話だけどな」
「食べ物もふかふかのベッドも憧れるけど、僕はここにいたいなって思ってるから」
「そうだな、ギーは弟と妹を迎えに行かなきゃならないもんな。騎士様について行ったらもうそいつらに会えないもんな」
「うん。僕の夢は三人で暮らすことだから。そのためだったら、貧しくても我慢するさ。いつかイオが親方になったら、僕を雇ってよ」
「任せろって。家も俺が用意してやるよ!」
夕陽に照らされたイオの赤毛がさらにオレンジ色に染まる。
イオの夢はいつか親方のもとを離れて自分で仕事をすること。
ガレベーラの夢は給金のもらえる仕事に就いて、屋根のある家に三人で住むこと。
貧しい若者たちは、ささやかすぎる夢をしばらく語り合った。
*
ガレベーラは厩の閂をかける。
イオと話しこんでいるうちに、すっかり暗くなってしまった。
「帰りが遅くなって、イオ、親方に叱られたりしないかな」
火も興さず、ガレベーラはイグサの巻かれた上に、力なく座り込んだ。
「それにしても、疲れたな……」
かまどの火も、ろうそくの明かりもない小屋の中は真っ暗だったが、今夜は月夜なので、風通しのための窓を少し開けると、わずかな明るさが差し込んだ。
イオがパンをくれたのでその包みを拡げた。
腹は減っていたが、食欲はまるでなく、包みをまた閉じる。
グウィディウスがいきなり訪ねてきたことには、疑問しかない。
しかし、その理由をいくら考えても、それに足りる情報をガレベーラが持っているわけがない。
騎士団員として、三年前に逃げ出した罪人を捕まえに来たと言うわけでもなさそうだ。
『ギー』を承知したと言うことは、令嬢ガレベーラを連れ戻すことが目的だとも言えない。
ただ、生死を確認したかっただけかもしれない。
年齢、立場からいってもグウィディウスはもう結婚しているだろう。
幸せな結婚生活も、かつて婚約まがいの約束をしたガレベーラが生きているのか死んでいるのかがわからないうちは、グウィディウスの目覚めはずっと悪いままだったにちがいない。
たった一言、『そう、私はガレベーラだ』と言えば、済むのかもしれない。
それが無理でも、グウィディウスの話を素直に聞けば、なんらかの納得も解決も得られるだろう。
それを聞きたくもあり、聞きたくない気持ちもあり、期待と諦めとが次々に浮かんではそれぞれに打ち消しあっている。
明日、また会ってしまったらどうすればいいのだろう。
例えば、金の無心をすれば、グウィディウスは言い値を、否、言い値以上をくれるだろう。
現状を訴えれば、王都に行きたいといえば、何かしら善処してくれるには違いない。
しかし、それを言える身分にガレベーラはもうない。
身分というものがどれほど人間としての力に差を与えるのかは、もう身をもって知っている。
その差が、ガレベーラにはもうつらいのだ。
その差をまざまざと感じることが、耐えがたい。
ここにいることが分かった以上、もはや居場所を変えた方がいいのかもしれない。
今だって、なんとかようやく見つけた所だが、明日には帰ると言ったグウィディウスが再び来ないとも限らない。
加えて、身分のある者がギーを探していたことはあっという間に村の噂になる。現に、イオが言うようにすでになりかけている。この先、とてもではないが心穏やかに過ごすことなどできそうになかった。
皆が貧しい見知らぬ土地で、身一つの、ましてや女が新しく暮らしていく困難よりも、ここに居続けるほうが苦痛になりかねない。
悶々と考えていると、草の音に混じって、かたん、と戸が鳴った。
ガレベーラは驚いて、身を固くする。
もう一度、今度は明らかな意思を持って戸を叩く音がした。
「……ギー、いるかい?」
予想通り、グウィディウスの声だった。
「夜更けにすまない。そのままでいいから、聞いてほしい」
小屋の中でガレベーラは息を殺していた。
返事も、かすかな頷きさえもしなかったが、どのみちグウィディウスには見えていない。
「夕方、明日も来るって言って別れたけれど、急用で西都に帰らなくてはいけなくなった。西都には騎士団の視察に来ているんだけど、僕が隊長なんだよ、驚くだろ?」
グウィディウスは続けた。
「近いうちに必ずまた来る。だが、君がまたここから姿を消すようなことがあるなら、僕は警護の者ならまだしも最悪の場合は監視をつけざるを得ない。それをするには、僕の名と権力にものを言わせることになるだろうね」
「そんな……!」
ガレベーラは声をあげると同時に立ち上がった。
あ、と気づいた時にはもう遅い。
グウィディウスが『ガレベーラの声』だと確認しているようなしばしの間があって、「よかった」と優しい声になる。
「……ギー。約束してくれないか。勝手にここからいなくならないと」
「……はい」
ガレベーラは小さく、しかし、はっきりと返事をした。
貴重な国力の浪費を、こんなところにいるガレベーラごときに使われるなどもってのほかだ。
「なにか必要なものはないかい?」
「……いえ、なにも」
「オーケー。じゃあ、僕は行くよ」
ざり、と砂が鳴った。
戸を開けるよう言われるかと思って警戒していたが杞憂に終わったようだ。
「この辺りは北方ではないのに、夜はかなり冷えるんだね。おやすみ、暖かくして」
家とも部屋とも言えないこの小屋の中が暖かくあるはずはない。
それでもここは、今のガレベーラにとって十分に贅沢でこれ以上ない、ありがたい城だ。
グウィディウスが去って行ってしばらく経ってから、ガレベーラはそうっと戸を開けた。
すでに闇に慣れている目で、あたりの草むらを探るが人の気配はない。
グウィディウスは言葉通り、ちゃんと立ち去ったようだ。
別れの挨拶のあと、馬を走らせる声が遠くで聞こえたので、まだいたなどということはないと思ったが、今朝、密かに見ていたと言うものだから用心は必要だ。
一歩出て、気づく。
「……これ」
小屋の外に置き土産があった。
むき出しの土に敷かれた絹のハンカチの上には一冊の本と小さな布袋、そしてリボンを巻かれた一輪の花。
ガレベーラはそれを拾い上げた。
この辺りではよく咲いている素朴な花だ。
本当なら薔薇を選びたいところが、こんな田舎村では手に入らなかったのだろう。
袋には硬貨が入っているらしい音がした。ずっしりと重い。
さすがに金貨だということはないだろうが、全てが銅貨であったとしても今のガレベーラには過ぎるほどの大金だ。
この三年で貯めたなけなしの金よりもずっと多い。
これでも、グウィディウスにはガレベーラの尊厳を傷つけないよう最大の配慮をした結果の金銭なのだろう。
ガレベーラは涙も出なかった。
グウィディウスの行為はなにも間違っていない。
ただ、もう遠い人だと思うだけだ。
なぐさめるように、あざ笑うように、天上には恐ろしいまでの数の星が沈黙して、ちっぽけなガレベーラを見つめていた。




