↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/22

牛飼い姫1

「ギー! 一杯くれ!」


 男に呼び止められ、ガレベーラは足を止めた。

 差し出した水差しを受け取って、樽の中の牛の乳をすくう。


「うちのやつ、もうすぐ子供が生まれるんだ。栄養つけてやろうと思ってな」


 そんな話を聞いたからには、なみなみと注がずにはいられない。

 産後の牛からしか取れない乳は貴重だ。

 一すくいの金で、二倍の量を入れてやる。このくらいの勝手は許されるだろう。


「おお、悪いな。ありがてえ。礼にこれ持っていけ」


 そう言って、籠いっぱいの林檎が荷車に載せられた。


「ありがとうございます」


 小さな声でそう言ってガレベーラは頭を下げる。深々と、何度も下げる。


 村人との会話は最低限に控えている。

 教会の神父に、まるで青年の声ではないと言われたからだ。


 この村で、ガレベーラはギーと名乗り、女であることを隠して暮らしていた。


 もっとも、見た目が青年ではなく子どもでも通るくらいの体格なので、かん高い声であっても構わないと言えばそうなのだが。

 それでも、極力喋らない。


 神父は、ガレベーラの声の小鳥のさえずりのようだと言った。


 かつて、似た例えをくれた人がいた。

 ガレベーラの声は、美しい小鳥が踊りながら歌っているようだ、と。

 しかし、それも遠い、昔の話だ。


*


「神父様、こんにちは」


「ギー、ようこそ。今日も労働ご苦労様」


 立ち寄った教会で、神父はいつもの穏やかな顔でガレベーラを迎えてくれた。


「林檎を頂いたのでおすそ分けを。まあ、りんごなどみんな食べ飽きているでしょうけれど」


「ギーの隣人愛に、飽きるなどの贅沢が言えましょうか。ありがたく頂きましょう」


 神父は押しいただくように受け取ってから籠の中の林檎を一つ取り、「これはあなたの食事に」とくれる。


 今も毎日の食事が十分にあるとは言えないガレベーラにはありがたいことだ。


 神父に分けてもらったものならば、ガレベーラが良心の呵責に苛まれることが少なく口に入れることができるのを知っているのだろう。

 ガレベーラが何より優先させるべきが自分の腹具合よりも教会の子どもたちのひもじさであることを知っているのだ。


「あと、小麦が少しあるので持っていきなさい。大丈夫、教会の分はしっかりとありますから遠慮せずに」


「貴重なものをありがとうございます」


 ガレベーラは深々と頭を下げる。


「イオは小川の水車掃除に駆り出されていますよ。見かけたら声をかけてあげてくださいな」


「はい」


 林檎をズボンのポケットに入れながら、昔、甘く煮て小麦と焼く菓子が大好きだったことを思い出す。

 この辺りで砂糖は大変貴重なものなので、甘い菓子が食べられるのは例えば結婚など祝い事のときだけだ。

 逆に、王都では高級品だった林檎がこの地方ではこうして貧しい人間の口さえ入るほどに余りあったりする。

 

「もし羽があったなら、王都に今すぐ飛んで行ってこれを食べさせてあげたいな……」


 帰り道、ガレベーラは空を仰ぎながら思わず呟いた。


 このリビと王都は、馬車を使っても五日かかるほどに遠いらしい。

 王都に二人を迎えに行くことはいまだ叶わずにいた。


 三年前、故郷に帰る子どもたちの馬車にガレベーラが紛れ込んでいたことがわかるや、人買いはガレベーラを花街に売ろうとした。


 ガレベーラは逃げ出した。必死だった。

 体を売ることも死ぬことも、やむを得ないと受け入れていたときもあったはずなのに、ラナンとペルラを置いてきたその時には選択肢は『生きる』、ただ一つだった。

 生きて、必ずまた二人に会う、と。


 逃げ出したのが一体どこの場所だったか覚えていない。そもそもどこであるかなど知りもしない。そこから先も、どこをどう歩いたか記憶にない。

 とにかく必死で、足をただひたすらに右、左と順番に前へ出し続けた。

 何日も飲まず食わずだった。

 見かねた親切な人に、馬車や荷車に乗せてもらえたこともあった気がする。

 それがどこの誰だったかなどはもちろん、ろくに礼も言えないまま、最後は行き倒れていたところを、通りがかった村の教会の神父に拾われた。


 貧しい教会だった。

 ここにも五人のみなしごがいて、ガレベーラは数か月の間、その子たちと一緒に世話になった。


 ラナンとペルラをあの階段下に置いてきたまま、自分だけ食事と寝床があることに悩み、自分を責めた時期もあった。


 それでも、神父に、今はいつか二人を迎えにいくための準備の時間なのだと導かれるうちに、ガレベーラはまたたくましく生きるようになった。


 教会からの丘を下ると、小川のほとりで見知った顔を見つけ、「イオ」と声をかけた。


「ギー! 教会からの帰りか?」


「うん。林檎をもらったから」


「ちぇ、林檎かぁ。どうせならもっといい物をもらえよ」


 ガレベーラはイオの軽口に笑う。

 イオも孤児だ。かつては教会に養ってもらっていたらしいが、仕事をもらえる年齢になると教会を出て、今はその親方の家に住み込んでいる。

 実際は少し年下だが、イオはガレベーラのことを同い年くらいだと思っていて、『ギー』の唯一の友達だった。


 身体も癒え、村にも慣れてきたころ、ガレベーラも教会の庇護から出て暮らすようになった。

 村の外れの屋敷でちょうど人を探していると教えてもらったからだ。


 その屋敷というのは、昔に商売で財を成した家系らしく、派手ではないが貧乏ではない一家だった。

 使用人として、掃除と洗濯、家畜の世話が主な仕事で、牛の乳を売った金のうちいくらかを給金としてもらえるという。

 その上、住む所まで与えられると言う贅沢な話だった。

 教会にこれ以上迷惑をかけずに済むことが、何より嬉しかった。


「イオ、水冷たくない? 風邪ひかないようにね」


「心配すんな! お前こそな。そろそろ冷えてくる時期だぞ。お前ん家、寒いんだから」


「じゃ、そろそろ行くよ。……あ、そうだ」


 荷車の車輪が回転するかしないかで、ガレベーラは思いだしたように足を止めた。


「今夜、宿屋の仕事がもらえたんだ。なんでも大口のお客さんがあるんだって」


「そうか、よかったな! おやじに給金弾むように言っといてやるよ! ああ、帰り道気をつけろよ。ちゃんとろうそくあるか?」


「なかったらおやじさんにもらうよ」


 ガレベーラは今度こそ、帰るために荷車を引き始めた。


*


 ガラベーラの一日は、日の出前に始まる。

 家畜には牛が三頭と、山羊が一匹、それと十数羽の鶏がいて、それらの世話からだ。 


「おはよう、みんな。もうすぐ陽が昇るよ」


 暑い日も寒い日も眠い日も、小屋へ行けば動物たちがガレベーラを待っているのがわかる。それはとても嬉しいことだった。

 ガレベーラの所有物ではないし言葉も通じないが、彼らは家族だと思っている。


 それが終われば、屋敷内の掃除と洗濯だ。午後から牛の乳が絞れた時はそれを売りに行く。

 屋敷のそばにはかつて馬がいたころの厩番の小屋があって、ガレベーラはそこで寝泊まりすることを許されていた。


 屋敷の主人は親切ではなかったが、ひどい人たちでもない。

 仕事は楽ではないが、こなすのが無理な量ではないし、罰せられることもなければ、金をもらえることさえある。


 寝床にはたっぷりのわらと、そこには屋根と囲いがあったし、人が住むにはひどい状態だった厩も、自由にしてもいいと言うのでイオにかまどを作ってもらった。


 寒い冬に、暖を取れることほどありがたいことはなかった。


「ギー! この前の客、騎士団だったって!?」


 乳売りの途中で出会ったイオは、ガレベーラを見つけるや興奮気味に言った。

 休憩中だと言うので、ガレベーラも荷車を道の脇に寄せて隣に座る。


「すげえな! なあなあ、騎士様ってどんなだった?」

 

「どんなって……そうだな、高そうな服を着てたかな」


「俺も見てみたかったなぁ」


 宿屋の手伝いをした夜、宿泊の大口の客というのは騎士の集団だった。


 この村ではついぞ見たことのない、鮮やかな色合いの制服を着ていた。

 たしかあの制服は地方部隊ではなく、王城直属の団員のはずだ。


 あの夜から、ガレベーラの心は少しだけざわついている。


 一人の騎士に話しかけられたのだ。


 その時、ガレベーラは裏口の井戸で食器を洗っていた。

 夏場はいいが、冬場は手が凍る。だんだんつらい季節がやってくるなと思いながら、心は珍しく弾んでいた。

 宿屋の主人が、誰かの忘れ物だと言って本をくれたのだ。


 村に字を読める人間はほとんどいないので、新聞も見かけないし、店屋にも本など売られていない。もっとも、あったところでガレベーラには高価で手に入れることはできないだろう。


 ガレベーラが持っているのはたった一冊だけで、それは以前に神父が手に入れてきた古本をもらったものだ。それを全文そらで言えるくらいに何度も繰り返し読んでいた。

 読書は、なんの娯楽も持てない今のガレベーラのただ一つの癒しである。

 

 新しく読める本は久しぶりだ。

 待ちきれず、仕事がひと段落した時間に本を開いたのだ。

 その夜はたくさんろうそくが焚かれて、店の外まで明るかった。


 騎士と話をしたのは、字が読めるのかと尋ねられた、そのたった一言だけだ。

 それにも大した返事はせずに、頷いただけ。

 騎士の顔は逆光でよく見えなかったが、かつてのガレベーラに騎士団員の知り合いがいた記憶はない。そもそも貴族出身で騎士になるような子息はあまりおらず、いたとしてもこんな地方に遠征しなければならないような実部隊にはいるはずもない。

 それでも王城に出入りがある身分ともなれば、顔見知りがいてもおかしくはなかった。


 しかし、不安を抱えたのも一晩だけだった。

 騎士団はもう次の日の朝早くに出立したという。


 騎士階級以上の誰かと話をするのは、カトル家を追い出されてからはじめてのことだった。


 またとない機会で、騎士に助けを求めれば、何かが変わったかもしれない。

 それでもガレベーラはそうせず、恐れたのは、ガレベーラ・カトルがここに生きているのを誰かに知られることだった。


 それはつまり、すでにガレベーラは令嬢ではないということだった。

 この村に住む『ギー』であり、ガレベーラ自身がもはやそうでありたいのだと。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。