第8話・片付け王子、埋もれた願いに触れる。
「……美しい、だって?」
ロゼッタは、眼鏡の奥で目を細めた。
怒るべきか、笑うべきか。そのどちらも決めかねているようだった。
「この部屋には、努力の足跡があると思ったんです」
俺は、机の端に積まれた紙の束へ目を向けた。
「同じ問題を何度も解き直した跡があります。本の余白にも、細かい字がびっしり。誰かに見せるためだけなら、ここまで書き込めない気がして」
紙には、消しては書き直した跡が幾重にも残っている。
「誰も見ていないところで、これだけ頑張ってきた。その積み重ねを、美しいと思ったんです」
ロゼッタの指が、服の裾を握り込んだ。
「お、お前に……私の何がわかる」
「まだ、ほとんど何もわかりません」
俺は正直に答えた。
「だから、知りたいんです。ロゼッタさんが、どんなことを考えてきたのか。話してもいいと思うことだけでいいので」
彼女は何かを言いかけ、口を閉じた。
その視線が、足元の古い教本に落ちる。
◇
「そんな資質が、エルドラン家の何の役に立つ」
鑑定の儀を終えた日。
父が最初に口にした言葉を、ロゼッタは忘れていない。
軍功と統治の実績を重んじる家だった。
兄たちは幼くして魔法の才を示し、父の期待を一身に受けていた。
自分にも、何かある。
そう信じていた。
けれど、告げられた資質を聞いた父は、鑑定書を伏せた。
「せめて学問くらいは身につけろ。家名を汚すな」
だから、勉強した。
魔法理論。領地経営。租税の仕組み。
眠気で文字がにじんでも、頬を叩いて机に向かった。
「お父様、課題ができました」
震える手で差し出した答案。
何度も間違え、ようやく最後まで解けたものだった。
父は一瞥して言った。
「兄なら半分の時間で終えている」
次は、もっと早く。
次は、もっと正確に。
そうすれば、きっと。
食卓では失敗を指摘された。
廊下では兄たちにため息をつかれた。
やがて、誰もいない自室で菓子を食べる時間だけが、ほっと息をつけるひとときになった。
甘いものを口に含んでいる間だけ、明日の課題を忘れられた。
食べ終わると不安が戻り、また手を伸ばした。
服の腰回りがきつくなった頃、兄の一人が笑った。
「勉強もできないくせに、食うことだけは一人前だな」
いつしか、陰で呼ばれる名は「デブメガネ」になった。
聞こえないふりをすると、わざと大きな声で繰り返された。
それでも、教本を開いた。
認めてもらう方法を、それしか知らなかった。
そして、ある朝。
「灰境領へ行け」
父は、書類から顔も上げずに告げた。
「今のお前を、人前に出すわけにはいかん」
荷造りの途中、使用人が紙の束に手をかけた。
「こちらは処分してよろしいですね」
ロゼッタは、奪うように抱き寄せた。
間違いだらけの答案。擦り切れた教本。
まだ家族と出かけることができた頃の服。
何一つ、置いていけなかった。
これまでの時間まで、なかったことにされる気がした。
灰境領へ来てからも、荷物を解くたび、手が止まった。
本を開けば父の声がした。服を見れば兄の笑い声がした。
その周囲に食事の包みが増え、洗えない食器が重なった。
訪ねてきた者は、誰もが言った。
汚い。捨てろ。いい加減にしろ。
だから、もう誰も入れたくなかった。
この少年が来るまでは。
◇
眼鏡の下から、涙が一粒落ちた。
俺は言葉を止めたが、ロゼッタは拭おうともしなかった。
「この部屋は、美しいと思います。でも、一つだけ、気になったこともあるんです」
彼女が、ゆっくり顔を上げた。
「頑張って身につけようとしたものは、たくさんある。でも、ロゼッタさんが好きで選んだものは、どこにあるんだろうって」
机にも床にも、難しい教本が積まれている。
けれど、そのどれを見ても、彼女の表情は曇った。
「見えていないだけかもしれません。僕の思い違いなら、ごめんなさい」
ロゼッタの唇が、小さく震えた。
「あ、それと。大切なものまで、無理に捨てなくていいと思っています。何か困っていて、手伝えることがあれば、そのときは力になりたいです」
彼女は顔を伏せた。
膝の上に、次々と涙が落ちていく。
……まずい。
何か、踏み込んではいけないことを言っただろうか。
「すみません。僕、変なことを……」
「違う」
かすれた声が返ってきた。
「違うんだ……少し、待ってくれ」
俺はうなずき、その場で待った。
窓の外を、荷車の音が通り過ぎた。
やがてロゼッタは、袖で頬を拭いた。
「私の資質は……踊りなんだ」
初めて聞くその言葉を、俺は静かに受け止めた。
彼女は途切れ途切れに話し始めた。家のこと。父の言葉。兄たちのこと。
勉強をしても、何をしても、届かなかったこと。
「……踊っているときだけは、楽しかった。でも、そんな暇があるなら本を読めって」
俺は、続きを急かさなかった。
言葉が止まれば待ち、彼女がこちらを見ればうなずいた。
「そんなことが、あったんですね」
ようやくそこまで言うと、ロゼッタは小さく息を吐いた。
下がった肩から、少しだけ力が抜けていた。
「こんな話、誰かにしたのは初めてだ」
「話してくれて、ありがとうございます」
彼女は気まずそうに眼鏡を押し上げた。
その仕草を見て、俺も少し笑った。
「ロゼッタさん。もし今も踊ることが好きなら、久しぶりに踊ってみませんか」
柔らぎかけた表情が、またこわばった。
「……もう何年も踊ってない。こんな身体だぞ」
彼女は自分の腹に視線を落とした。
「昔のようには動けない」
「昔のように踊らなくても、いいと思います」
俺は、彼女の足元へ目を向けた。
「座ったまま、手を動かすだけでも。好きだった曲を思い出して、少しだけ」
「それで、何になる」
「楽しかったなって、思えるかもしれません」
ロゼッタが顔を上げた。
「誰かに上手だと認めてもらわなくても。少なくとも僕は、ロゼッタさんの好きなことを、応援したいです」
彼女は何も答えなかった。
ただ、膝の上の指先を見つめていた。
俺はそこで、扉の方へ一歩下がった。
「挨拶だけと言ったのに、長くなってしまいましたね。今日は、これで失礼します」
返事を待ってから頭を下げる。
帰り道も、物には触れなかった。
◇
玄関を出ると、オズ爺がすぐに歩み寄ってきた。
「ぼっちゃま。ずいぶん長かったので、心配いたしました。お怪我などは」
「大丈夫。ロゼッタさん、とてもいい人だったよ」
オズ爺の眉が、ぴくりと上がった。
「あの方と、お話ができたので?」
「うん。大切な話を聞かせてもらった」
振り返ると、扉は半開きのままだった。
部屋の物は、一つも減っていない。
それでも、来たときとは少し違って見えた。
「また、来ようと思う」
俺はオズ爺と並び、ゆっくり歩き出した。
その頃、部屋に残ったロゼッタは、膝の上でそっと手を開いていた。
遠い昔に覚えた旋律。
忘れたと思っていた、その最初の一音を探すように。




