第9話・片付け王子、好きの居場所をつくる。
「何? あいつと、話したのか?」
管理棟に戻って報告すると、ギルベルトの手が止まった。
ペン先から落ちたインクが、書類に黒い染みをつくる。
「はい。家の中にも入れてもらいました。ただ、片付けはまだ何も」
「……中にまで?」
ギルベルトは、俺の後ろに立つオズ爺を見た。
無言のうなずきが返ると、椅子の背にもたれかかった。
「引き続き、ロゼッタさんと話ができたらと思っています。もう少し時間をください」
しばらく、指で机を叩く音だけが続いた。
「わかった。任せる」
昨日までより、短い返事だった。
けれど俺には、その言葉が少し嬉しかった。
◇
二人が退出したあと、ギルベルトは書類の染みを眺めていた。
あの女は、誰が訪ねても追い返した。
自分も、近隣の住民も。
それを、あの王子は。
成果を誇る様子もなく、家に入れたことより、話を聞けたことを喜んでいた。
「十歳、だったよな……」
あの年頃の王族なら、認められようと背伸びをするものだ。
ところが、リオには妙な落ち着きがある。
ギルベルトは、これまでの出来事の感心とともに、言葉にできない違和感をリオに対して感じ始めていた。
◇
翌朝、俺たちは再びロゼッタの家へ向かった。
「ぼっちゃまは、本当に忍耐強いお方ですな」
「そうかな。ただ、力になれたらと思ってるんだけどね」
角を曲がり、見慣れた玄関が見えてくる。
そこで俺は、足を止めた。
「あれ。少し、物が減ってる」
昨日まで敷居に重なっていた包み紙がない。
壁際の箱も、一つにまとめられていた。
「じゃあ、行ってくるね」
扉を叩くと、間を置いて声がした。
「……開いてるよ」
今日は、呼びかけを繰り返す必要がなかった。
中へ入ると、通路の本が少し脇に寄せられていた。
奥ではロゼッタがテーブルについている。
向かいの椅子には、昨日まで衣服が積まれていた。
今は、何もない。
「おはようございます。少し、片付けられましたか?」
「まあな。通りにくかったから」
彼女は横を向いた。
「座ればいいだろ」
「ありがとうございます」
俺は、その椅子に腰を下ろした。
「今日は、僕のことも少し話したくて来ました」
「領主になったんだろ。それは聞いた」
「はい。でも、どうしてここへ来たのかは、まだでしたよね」
ロゼッタが、こちらへ目を向ける。
「王家には、十歳になると三年間、領主を務める慣わしがあります。僕もそれで来ました。ただ、この土地を任された理由には、僕が無能だと思われていることもあると思います」
彼女の眉が、わずかに動いた。
「三歳の鑑定の儀で、僕に示された資質は『片付け』でした。もう一方の王家の国王様には、使用人にでもなればいいと笑われました」
「……王子に、そんなことを?」
「ええ。同じ日に鑑定を受けたユリウスは、四大元素すべての魔法を使える天才でしたから」
あの日の神殿を思い出す。
光と歓声。そして、一斉に背を向けた人々。
「みんな、彼こそ予言の英雄だと大喜びで。僕の鑑定なんて、なかったみたいでした」
ロゼッタは黙って聞いていた。
テーブルの下で、膝に置いた手が握られる。
「でも、父と母は喜んでくれました。家の中を整えて、みんなを助けているじゃないかって。だから僕も、この資質を嫌いにならずに済んだのかもしれません」
「……そうか」
「僕、片付けが好きなんです。ここへ来てからも、できることがありそうだと思うと、少しわくわくしています。この灰境領を片付けるために、生まれてきたのかなって感じるくらいに」
壊れた道具。使われていない建物。
誰のものかわからないまま、放置された物。
街を歩くたび、気になるものが増えていく。
「困っている人に話を聞いて、使えるものを探して。そうやって暮らしやすくしていけたら、嬉しいです」
「変わってるな、お前」
「よく言われます」
ロゼッタの口元が、ほんの少し緩んだ。
俺は、その顔を見てから言葉を続けた。
「昨日、話してくれたことを考えていました。僕に全部わかったとは言えません。でも、これからロゼッタさんが安心して暮らせるように、力になりたいと本気で思っています」
彼女の表情が止まった。
「だから、何を残したいか。どんなふうに暮らしたいか。一緒に考えてもいいですか?」
眼鏡の奥に、みるみる涙がたまった。
ロゼッタは顔を伏せ、片手で目元を覆った。
肩が震え、押し殺した声が漏れる。
俺は黙って待った。
しばらくして彼女は、昨日は話さなかったことを語り始めた。
父に見せられなかった答案。声をかけてくれなくなった使用人。
灰境領へ向かう馬車で、何度も屋敷を振り返ったこと。
そして、ぽつりと言った。
「本当は、踊っていたかったんだ」
俺はうなずいた。
「今も、その気持ちはありますか?」
「……あるよ」
彼女は自分の身体へ目を落とした。
「昨日、お前が帰ったあと、少し手を動かしてみた。でも、立とうとしたら物に足が当たってさ。それで、少しだけ寄せたんだ」
玄関と通路の変化が、ようやくつながった。
「けど、こんな身体だ。昔のようには動けない。今さらやったところで、何になる」
「好きなことって、何かの役に立つから、するんでしょうか?」
ロゼッタが顔を上げた。
「やりたいから、やる。それでもいい気がします。僕の片付けだって、最初は好きだから始めたことですし」
「……誰にも、見せなくても?」
「もちろん。逆に誰かに見せる必要って、あるんでしょうか」
彼女は長い間、黙っていた。
やがて、かすかに笑った。
「小さい頃は、曲が聞こえたら勝手に身体が動いてた。褒められるとか、役に立つとか、考えもしなかったよ」
その指が、テーブルの上で小さく拍子を刻んだ。
「もう一度……やってみようか……」
「はい、心のままに」
俺はうなずき、足元を見た。
「そのための場所が必要なら、手伝わせてください」
◇
外に出ると、オズ爺が大きく息を吐いた。
「一時間以上、お待ちしましたぞ」
「ごめん。つい話し込んじゃって」
「お話が弾んだのでしたら、何よりです」
そう言いながら、オズ爺は俺の顔と家の扉を交互に見た。
何か言いたそうだったが、結局、目尻を下げただけだった。
それからも、俺はロゼッタのもとへ通った。
訪ねるたびに片付けたわけではない。
話だけして帰る日も、彼女が疲れていて玄関で挨拶を終える日もあった。
ある日は、一緒に食器を洗った。
別の日には、読み返したい本と、今は開かない本を分けた。
捨てるかどうか、彼女が迷うものは置いておいた。
「今日は、ここまでにしましょうか」
そう区切りながら、少しずつ進めた。
やがてロゼッタは、自分から床の一角を指した。
「ここを空けたいんだ。両手を広げても、ぶつからないくらいに」
そこから、物の置き場所が決まり始めた。
◇
一か月が経った朝。
ロゼッタの家の前で、俺は思わず立ち止まった。
玄関先には何もない。
隣家へはみ出していた箱も、鼻をついた臭いも消えていた。
迎えられて中へ入る。
足元を確かめなくても、まっすぐ歩けた。
窓から入った光が、拭かれた床の木目を浮かび上がらせている。
壁際には、あの教本が並んでいた。
何度も解き直した紙の束も、ひもで結ばれ、大切に収められている。
歩くたび、床板が静かに鳴った。
その先には、ロゼッタが自分のためにつくった「踊る」場所がある。
リビングへ続く短い通路。
俺にはそれが、明るい未来へと続く、栄光の道のように見えたのだった。




