第7話・片付け王子、汚部屋を美しいと言う。
鼻を刺す臭い。
湿った布と、腐った食べ物。足元を、小さな虫が横切る。
目だけでなく、身体まで、この場所の荒れ方を感じ取っていた。
ただ、俺は意外と慣れていた。
前世では、片付け好きが高じて、知人や、その紹介先の家まで整理を手伝っていた。足の踏み場もない部屋に入ったことも、一度や二度ではない。
俺は道の向こうで待っている二人に、今から行くという合図を目で送った。
そして、半開きの扉へ近づく。
「ロゼッタさん、いらっしゃいますか。今日から領主として参りました、リオと申します」
返事はない。
間を置き、もう一度声をかけた。
奥で何かが擦れる音はしたが、言葉は返ってこなかった。
隙間から、床に積もった紙や空き容器が見えた。
俺は一歩下がった。
「また、ご挨拶に伺います」
そう告げ、二人のもとへ戻る。
「やけに早かったじゃねえか。で、どうだった?」
「全然駄目でした」
笑って答えると、ギルベルトの眉が跳ねた。
「諦めるのも早すぎるだろ。……まあ、そんなもんか」
「諦めていませんよ。今は、そのタイミングじゃないと感じただけです」
「どういうことだ?」
「扉の隙間から、少し中が見えました。物がいっぱいで、歩く場所も狭くなっていました」
「だから、片付けろと言ってるんだ」
「はい。でも、今日初めて来た僕まで片付けの話をしたら、きっと同じように追い返されます」
部屋の中は見えた。
けれど、そこに住む人のことは、まだ何も知らない。
「少し時間をください。考えがあります」
ギルベルトは俺をじっと見た。
それから、短く鼻を鳴らす。
「好きにしろ。ただし、無駄に引き延ばすな」
「ありがとうございます」
「それとな。お前らの寝床だが、まともな部屋はねえぞ」
彼は管理棟のほうを指さした。
「一人につき一部屋。それだけだ。王家でぬくぬく育った王子様には、狭くて驚くかもしれねえがな」
◇
驚いた。
「……いいなあ」
寝台と机、小さな棚。
窓からは、通りの様子が見える。
必要なものに、数歩で手が届く。
これは、懐かしのワンルームではないか。
前世で初めて一人暮らしをした部屋を思い出した。
家具の位置を考えるだけで、何時間でも楽しめたものだ。
俺は、持ち物が少ない暮らしが好きだった。
王家の部屋より、こちらのほうが落ち着くかもしれない。
窓を開け、机の埃を拭く。
椅子を少しずらし、荷物を棚に収めた。
それだけで、部屋に自分の居場所ができた気がした。
隣室から、オズ爺が木箱を動かす音がする。
……あちらは、あとで様子を見よう。
◇
翌朝、九時。
俺はオズ爺と、再びロゼッタの家へ向かった。
オズ爺には少し離れて待ってもらう。
「おはようございます。リオです。ご挨拶に来ました」
返事はなかった。
「では、今日はこれで失礼します」
帰り道、オズ爺へ言う。
「明日も九時に来よう」
次の日も、その次の日も、同じようにした。
長居はしない。
返事を求めて扉を叩き続けることもしない。
訪問を終えたら、管理棟へ戻り、街の帳簿を読んだ。
分からないところを尋ねるたび、ギルベルトの眉間に皺が増えた。
そうして、一週間が過ぎた。
◇
「ぼっちゃま」
いつもの道で、オズ爺が声をかけてきた。
「何の反応もございませんが……いつまで続けられるおつもりですか」
「話ができるまで、続けるよ」
俺は前を向いたまま答えた。
「片付けてほしいと頼んだのは、ロゼッタさんじゃないからね。まず、僕が誰なのかを知ってもらいたいんだ」
オズ爺はしばらく黙って歩き、やがてうなずいた。
「承知しました」
家に着く。
俺は、いつもの場所に立った。
「ロゼッタさん、おはようございます。リオです」
「しつこいな、お前は!」
奥から、声が返った。
思わず、顔がほころぶ。
「あっ、初めて答えてくれましたね。ありがとうございます!」
「うるさい! 何がしたいんだ!」
「今日は、ご挨拶がしたいだけです」
「もうしただろ。帰れ!」
「はい、すぐ帰ります。ただ、一度だけ、顔を合わせてご挨拶させてもらえませんか」
扉の向こうが静まった。
「ロゼッタさんも、僕にとって大切な、この街の住民です。何も話さないままには、したくなくて」
「どうせ、中に入ったら捨てろって言うんだろ」
「言いません。勝手に物に触れたり、持ち出したりもしません。望まれるなら、ほかの人にも、無断で入って物を動かさないよう伝えます」
奥で、椅子が軋んだ。
「……お前に、そんなことができるのか」
「そのためにも、領主として話を聞かせてください」
長い沈黙のあと、声がした。
「挨拶だけだ。済んだら、すぐ帰れ」
「ありがとうございます」
俺は扉を開け、敷居をまたいだ。
◇
床は、ほとんど見えなかった。
袋や箱の間に、人が一人通れるほどの隙間がある。
服の裾を引っかけないよう、慎重に進んだ。
積まれた本。端が擦り切れた紙の束。
割れた器の横に、細かく文字を書き込まれたノートがある。
何度も消して、書き直した跡。
閉じきらない本からは、折り畳まれた紙が何枚もはみ出していた。
俺は、足を止めずに見ていった。
奥の居間で、女性が待っていた。
ふくよかな身体を、色褪せた部屋着に包んでいる。無造作にまとめた髪。
丸い眼鏡の奥には、警戒を隠さない目があった。
ロゼッタ・エルドラン。
彼女は椅子に座ったまま、俺を見下ろした。
俺は頭を下げる。
「はじめまして。リオ・アーヴェルです」
「用が済んだなら、もう帰りな」
「……一つだけ、いいですか」
「帰りな」
そっぽを向く彼女の傍らに、開いた本があった。
余白の隅まで、小さな文字で埋まっている。
俺はそのページから、彼女へ視線を戻した。
「玄関からここまで歩いてきて、思ったことがあるんです」
眼鏡の奥の目が、険しくなる。
俺は、口にした。
「この部屋、とても美しいですね」
椅子が大きく鳴った。
「おちょくってるのか、お前は!」
ロゼッタが立ち上がる。
「帰れ! 馬鹿にするために、毎日来てたのか!」
俺は、その場に立っていた。
臭いも、積み重なった物も、見えていないわけではない。
ただ、それだけではなかった。
彼女の目を、真っすぐに見る。
「茶化していません」
声を張らずに、もう一度伝えた。
「この部屋は、とても美しい。本当に、そう思ったんです」
ロゼッタの唇が動いた。
怒鳴り返すはずだった言葉が、出てこない。
帰れと指さしていた手が、宙で止まったままだった。
目の前の青い瞳に、嘲りはなかった。
彼女は初めて、自分の部屋を振り返った。
それから、何かを確かめるように、もう一度俺を見た。




