第5話・片付け王子、異世界を洗濯する。
母子と別れ、俺たちは灰境領へ入った。
遠くから見えていた屋根は、近づけばあちこちが欠けていた。
道には荷車の残骸が置かれ、水路には泥と枯れ葉が詰まっている。
窓の奥から、こちらをうかがう目があった。
けれど、声をかけてくる人はいない。
馬車を広場につなぎ、俺はオズ爺と歩き出した。
「まずは、管理官のもとへ参りましょう」
「領主がいなくても、管理する人はいるんだね」
「税や物資、住民の記録を預かる者です。ギルベルト・クラウスと申します。昔、同じ部隊におりましてな」
オズ爺は少し間を置いた。
「ただ、少々癖のあるやつでして」
「オズ爺より?」
「……私には、ございませんが」
その返事が妙に真面目で、俺は少し笑った。
◇
案内されたのは、広場の端にある石造りの建物だった。
扉を開けると、紙と埃の匂いがした。
棚には帳簿。机には書類。
床にも、紐で束ねた紙の山。
その隙間から、眼鏡をかけた痩せた男が顔を上げた。
「……オズ?」
「久しいな、ギル」
男は立ちかけ、俺を見ると椅子へ腰を戻した。
オズ爺が一歩進む。
「王国の慣わしに基づき、こちらのリオ・アーヴェル第三王子が、今後三年間、この地の領主をお務めになる」
ギルベルトの眉間に、深い皺が寄った。
「古臭い王国の慣わしで、ガキを連れてくるんじゃねえよ」
机に、ペンが置かれる。
「ここは遊びで来る場所じゃねえ。オズワルド、そのことは、お前が一番分かってるんじゃねえのか?」
「口を慎め」
オズ爺の声が低くなった。
「ぼっちゃま、申し訳ありません。こやつは少々、口が悪いところがあるのですが……」
少々の範囲が、なかなか広い。
俺はオズ爺の横へ出て、頭を下げた。
「リオ・アーヴェルです。今日からお世話になります」
ギルベルトは答えなかった。
眼鏡の向こうの目が、俺の顔から靴までをたどる。
「私も最初は、灰境領へリオ様を送るなど、あり得ないと思っていた」
オズ爺が言った。
「だが、ここまでご一緒して、その考えは少し変わった」
「お前は昔から、身内に甘い」
「お前は昔から、人の話を最後まで聞かぬ」
長いつき合いなのだろう。
互いの声に遠慮はないが、オズ爺の手は剣へ向かっていなかった。
◇
ギルベルトは、王都で兵站を担っていたという。
救援物資の不足を見つけ、帳簿の書き換えを命じられても従わなかった。
その結果、中央を追われ、この地へ送られた。
オズ爺がそこまで話すと、本人が遮った。
「昔話はいい。今ある食料は、昔の手柄じゃ増えねえんだ」
机から帳簿を引き抜く。
「王子様。ここに来れば、王都が金を出してくれるとでも?」
「いいえ。支度金も、わずかでした」
「なら、何ができる?」
俺はすぐには答えられなかった。
母子に食料を渡したことを思い出す。
あれができたのは、俺たちに持ち合わせがあったからだ。
街全体となれば、同じようにはいかない。
「まだ、分かりません」
ギルベルトの目が細くなる。
「だから、教えてください。あなたがこの街で見てきたことを」
しばらく、紙の擦れる音だけがした。
彼は帳簿を閉じ、椅子にもたれた。
俺は部屋を見回した。
紙の束には、井戸、修繕、配給といった文字が見える。
赤い印のついた書類が、何度も折り直されていた。
「その書類は?」
「王都へ出した要請だ。戻されたものも、返事のないものもある」
「ずっと、取ってあるんですね」
「片づいた話なら、とっくに捨ててる」
俺は、紙の山へもう一度目を向けた。
ここに積まれているのは、ただの古い書類ではないらしかった。
「この街には、どんな問題があるのでしょうか?」
「見りゃ分かるだろ。問題しかねえよ」
ギルベルトは指を折った。
「仕事がねえ。仕事を作ろうにも道が傷んで、商人が来ねえ。井戸は一つ使えなくなってる。修繕には金が要る。税を取ろうにも、取れる相手がいねえ」
最後の指を折る前に、手を下ろす。
「腹を空かせた人間に、来年まで待てとは言えねえ。それでも待てと書いて送ってくるのが、王都だ」
俺は、返す言葉を探した。
どれから手をつけるべきなのか。
まだ、その順番さえ分からなかった。
◇
「……そうだ」
ギルベルトが、思い出したように言った。
「一人、厄介な女がいる」
机の端から、薄い紙束を取り出す。
「リオ王子様は、確か片付けが能力だったよな」
「はい」
「そいつの家は、ゴミ屋敷だ。異臭はする、虫は出る。隣の家の戸口まで物がはみ出してる」
紙には、別々の筆跡が並んでいた。
「近所の連中が何度頼んでも駄目だ。俺が行っても追い返す。物に触ろうものなら、ものすごい剣幕で怒鳴りやがる」
ギルベルトは紙束を机へ戻した。
「その家へ行って、状況を改善してみろ。できたら、領主として認めてやるよ」
「変な駆け引きを要求するな」
オズ爺が一歩踏み出した。
「リオ様は、既に正式な――」
「オズ爺」
俺は、その腕へそっと触れた。
それからギルベルトを見る。
「分かりました。では、早速その方のもとへ案内してください」
彼の眉が動いた。
「……話を聞いてたか? 誰が行っても、追い返されてるんだぞ」
「はい。だから、まずは会って、お話を聞きたいです」
近所の人が困っている。
その女性も、何かを抱えているのかもしれない。
会う前から、それ以上は分からなかった。
ギルベルトは俺を見つめ、やがて机の引き出しを開けた。
鍵束を取り出し、上着を羽織る。
「泣いて帰ると言っても、知らねえからな」
「道は、覚えておきます」
背後で、オズ爺が小さく咳払いをした。
◇
ギルベルトの背を追って、通りを歩く。
歩くたび、靴の下で小石が鳴った。
軒先に座る老人。割れた窓。壁際に積まれた、使えなくなった道具。
さっきまで、到着したばかりの街だった。
今は、その一つ一つが、俺の仕事につながって見える。
まずは、一軒。
その家で暮らす人の話を聞くことから始めよう。
ふと、前世の記憶がよみがえった。
夜の山道。
迫るガードレール。
そして、その少し前に立ち寄った、お土産売り場。
坂本龍馬の言葉が印刷されたクリアファイルを、俺は買った。
親父を思い出して、鞄へしまった。
日本を洗濯する前に、会社の机を片付けている。
あのときは、そんなふうに笑ったのだった。
俺は、一人でそっと口元を緩めた。
今度の仕事も、最初は片付けだ。
けれど、その先に、街の暮らしがある。
見上げた空は、思いのほか青かった。
親父。
つけてくれた名前に、少しは近づけるだろうか。
歩みを止めず、心の中で手紙を書く。
拝啓、前世の父上様。お元気でしょうか。
私、時透龍馬改め、リオ・アーヴェルは、
今一度異世界を、せんたくいたし申候。




