第4話・片付け王子、小さな勇者に出会う。
森を抜けると、風の匂いが変わった。
湿った葉の匂いが薄れ、乾いた土が舞う。
坂の向こうに、灰色の屋根がいくつか見えた。
「あれが、灰境領です」
オズ爺が手綱を緩めた。
俺たちは道の脇に馬車を止め、少し休むことにした。
地面に降り、固まった脚を伸ばす。
いよいよ、俺が預かる街だ。
そう思って眺めていたとき、坂の下から人影が近づいてきた。
フード付きの、ぼろぼろの外套。
足取りは重く、今にも倒れそうだった。
「大丈夫ですか?」
声をかけた、次の瞬間。
その人が地面を蹴った。
「金を……!」
伸ばされた手が、俺の腰の袋へ迫る。
だが、その指が届く前に、オズ爺が間へ入っていた。
手首を押さえ、身体を半歩ずらす。
相手は体勢を崩し、地面に膝をついた。
「何者だ」
オズ爺がフードを外す。
現れたのは、やつれた女性の顔だった。
こけた頬。ひび割れた唇。
血走った目が、逃げ道を探すように動いている。
「なぜ、このような真似を――」
「お母さんをいじめるな!」
小さな影が、道端から駆けてきた。
六歳くらいの男の子だった。
母親の前へ飛び込み、両腕を広げる。
細い手足が震えていた。目には涙がたまっている。
それでも、逃げなかった。
「はなせよ……お母さんを……!」
「オズ爺、待って」
俺は男の子へ歩み寄り、その前に膝をついた。
彼より低いところから、顔を見上げる。
「ごめんね。怖かったね。いじめたりはしないから」
男の子は母親をかばったまま、俺をにらんでいた。
「お母さんが僕のものを取ろうとしたのは、よくないことだと思う。でも、どうしてそうしたのか、まず聞きたいんだ」
女性の肩が、びくりと動く。
「君を守りたくて……どうしたらいいか、分からなくなっていたのかな」
女性の目から、涙がこぼれた。
口元を引き結んでも、嗚咽が漏れる。
「僕はリオ。この先の灰境領へ、領主としてやってきたんだ。そうは見えないかもしれないけどね」
「領主、様……?」
女性の顔から、血の気が引いた。
「申し訳ありません……知らなかったとはいえ、私は……」
「安心してください。このことで、あなたに罰を与えるつもりはありません」
俺は、なるべくゆっくり話した。
「ただ、事情を聞かせてもらえますか?」
オズ爺が、こちらを見た。
俺がうなずくと、彼は女性の腕を静かに放した。
◇
女性は、灰境領で息子と二人、暮らしていた。
働き口を探しても、幼い子供を連れた彼女を雇ってくれる人は少ない。
ようやく得た仕事も、長くは続かなかった。
食べ物が尽きた。
明日の分どころか、今日はまだ何も食べていない。
「この子に……何か、食べさせたくて……」
女性は、息子の背に手を置いた。
その手は、男の子と同じくらい細く見えた。
俺は坂の向こうへ目を向けた。
地図の上では、ただの小さな印だった。
けれど、あの屋根の下には、この人たちのような暮らしがある。
俺は、それを預かるために来たのだ。
「オズ爺。余分に持っている食料を、この人たちに少し分けてあげて」
「承知しました」
オズ爺は迷わず馬車へ戻り、パンと干し肉、水筒を持ってきた。
女性は受け取ると、まずパンを息子へ差し出した。
男の子はかじりつこうとして、一度止まる。
半分に割り、大きいほうを母親へ渡した。
「ありがとうございます……」
女性は食料を抱えたまま、深く頭を下げた。
俺は、男の子が水を飲むのを待ってから声をかけた。
「君は、強い子だね」
彼が、こちらを見る。
「怖かったのに、お母さんを守ろうとした」
男の子は黙って、パンを握り直した。
俺は道の脇を指さした。
「ねえ、あの大きな木が見える?」
坂の上に、一本の巨木が立っていた。
太い幹から伸びた枝が、空いっぱいに葉を広げている。
「それから、足元を見てごらん」
草に紛れて、小さな芽が出ていた。
巨木と同じ形の葉を、頼りなく揺らしている。
「この芽も育ったら、あんな木になるかもしれないね」
男の子は、木と芽を交互に見た。
俺はしゃがみ、芽に覆いかぶさっている草を抜いた。
絡んだ枯れ枝をよけると、小さな葉に日が差した。
「僕には、強い魔法も、魔物を倒せる剣の腕もない。領主の器があるのかって聞かれたら、自分でも分からない」
土を払いながら、苦笑する。
「でも、こんなふうに、育ちやすい場所を作ることなら、できると思うんだ」
男の子が、芽をのぞき込んだ。
「……これで、おっきくなる?」
「光が届くようになったね。あとは水も必要だし、踏まれないようにしてあげたい」
俺は道に落ちていた小枝を拾い、目印に立てた。
「君にも、ご飯や、安心して眠れる場所が必要だよね。いつもお母さんの心配をしていたら、遊ぶことだってできない」
男の子の唇が、わずかに震えた。
「だから、君とお母さんが、少しでも暮らしやすくなる街にするよ」
言葉にすると、その約束は重かった。
食料を渡すだけで解決するなら、どれほど簡単だろう。
明日も、その先も、この二人の暮らしは続いていく。
それでも、目をそらしたくなかった。
「困っていることを、僕に教えてほしい。一緒に考えよう」
男の子の膝から、力が抜けた。
俺は、とっさに肩を支えた。
「……おかあさん、昨日も、ご飯いらないって……」
こらえていた涙が、次々に落ちる。
「おなか、すいてないって……でも……」
「うん」
俺は、背中に手を添えた。
母親が口元を押さえ、顔を伏せる。
しばらく待ってから、俺は小さな芽を見た。
「あの大木は、誰が見ても立派だね。でも、こんな小さな芽は、気づかれずに踏まれることもある」
男の子が、涙に濡れた顔を上げた。
「僕は、この芽を見たときに、大きく育った姿も思い浮かべられる人でいたいんだ」
彼の震える手を、そっと包む。
「君の勇気も、見えたよ」
「……ぼく、怖かったよ」
「うん。それでも、お母さんの前に立った」
俺は微笑んだ。
「君は、もう立派な勇者だよ」
男の子の顔がくしゃりと歪んだ。
次の瞬間、俺の胸へ飛び込んできた。
「うわあああ……!」
勢いに押され、尻もちをつきそうになる。
中身は大人でも、身体は十歳。
格好よく受け止めるには、まだ少し足りない。
それでも両腕を回し、細い背中を抱いた。
泣き声が小さくなるまで、何度も頭をなでた。
傍らでは、母親が繰り返し頭を下げていた。
「本当に……申し訳ありませんでした……」
◇
オズワルドは、その光景を黙って見守っていた。
主君を守るために押さえた腕は、あまりにも細かった。
あのとき、目に映っていたのは、襲いかかる者の手。
しかしリオは、その手が守ろうとしたものを見ていた。
領主の器があるか、自分でも分からない。
そう言っていたが、今、小さな身体にしがみついている子供は、安心して泣いている。
その母親も、もう逃げ道を探してはいない。
オズワルドの目元に、熱いものがにじんだ。
一雫だけこぼれた涙を指で拭い、心で噛み締める。
「灰境領は、ようやく領主を迎える。もしかしたら、ぼっちゃまが来たことで、この荒れ果てた街に、初めて光が灯るかもしれない。」
背筋を伸ばし、身を引き締める。
「この方を、必ずお守りしよう。」
改めてそう誓いながら、晴れ渡る空を仰いでいた。




