羨望の裏、その実態③
「ねぇ冴、もうこういうの止めようよ」
「はぁ?」
「だってこんなことで土下座なんて、いくらなんでもおかしいよ」
「ふざけんな!!」
それまでの恫喝するかのような声とは違う、苛立ちに任せたような叫びだった。
耳が痛くなるほどの声量で叫ばれて、夏生は思わず顔を歪める。それがまた気に障ったのか、身を乗り出してきた冴に、夏生は胸倉をつかまれた。
「あたしに逆らうの? アンタ昔あたしに、なんて言ってたか忘れたの?」
「忘れてないよ、ちゃんと覚えてるよ」
「だったらさ! 今言ったことがおかしいってわかるよね? 脳みそある?」
「ごめん。でも、だからってこんなことで土下座なんて」
「言い訳すんなよ!」
ついに癇癪を起した冴に、夏生は突き飛ばされた。
後ろに尻もちをつくように倒れこむ。
そんな情けない夏生の姿を見ても、今回のことがよほど癇に障ったのか、冴は怒りが収まらなかったらしい。そのまま近くにあったコップを手に取り、躊躇なく投げつけてきた。
「痛ッ!?」
倒れこんだばかり夏生に、それを避ける動作などとれるわけもなく、ガラス製のコップは顔面に当たって砕け散った。
それを見た冴が、なぜか顔を青ざめさせる。
怒りに任せて投げたものが、まさか当たるとは思っていなかったのだろうか。
慌てたように立ち上がり、それでもすぐに座りなおした冴は、夏生はまだなにも言っていないというのに、自分を守るかのように早口で言い訳を展開し始めた。
「何当たってんの!? てきとーに投げただけなのにさ! 普通よけるでしょ? 私は悪くない、鈍間な夏生が悪いでしょ!!」
謝るような言葉は一つもない。
この惨状の全ての責任を夏生に擦り付けようとする冴。
夏生にとってそんな冴の言葉は、とても納得できるようなものではなかったが、これ以上歯向かう気力も残っていなかった。
これまでも、グズグズしてしまったり、口答えしたときは、かるくはたかれたりしたこともあった。けれど、ここまでのことをされるのが夏生は初めてだったから。
鋭い痛みと驚愕に支配され、思考が凍てつくように固まってしまう。
機嫌を損ねるほどに、もっと酷いことをされるのではないかと考えると、もうこの場では何もできる気がしなかったのだ。
「わかった。わかったよ。土下座するから、お願いだから落ち着いてよ冴」
取り乱すかのようにわめく冴を手で制し、夏生はゆっくりと床に額をつけた。
そのままじっと土下座を続けていると、冴もだんだんと落ち着いてきたらしい。夏生が自分に従ったことで、平静を取り戻したのだろうか。
「最初からやってくんない? 怒るのだって疲れるって知ってた? 無駄なことさせないでよ」
「ごめんね。反省してるから」
「当たり前でしょ。全部夏生が悪いんだから、そうでしょ?」
「うん。ごめん。僕が悪かったよ」
どんなに理不尽なことを言われても、夏生は冴の言葉を全て肯定する。
これ以上逆らって、酷い目に合わないように。
「わかればいいよ。でも今度また生意気なこと言ったら、一日中土下座か、教室で恥ずかしいことでもやらせるから」
「もう言わないよ。ちゃんと気を付けるから」
夏生の態度から、従順になったことを理解したのだろう。変わらず脅すようなことは言うが、声色を聞けば、冴の態度が軟化しているのは、顔を見なくても夏生にはわかった。
このまま落ち着いてほしい。せめて機嫌さえよくなれば、少しはマシになるから。そう心から願って、夏生は土下座のまま動かずにいた。
「ねぇ夏生、わかればいいって、あたし言ったよね? 話聞いてる? いつまでそうしてんの?」
冴から許しがでる前に動けば、せっかくの苦労が無駄になるかもしれない。だから夏生はじっと土下座を続けていたわけだが、これ以上は逆に冴を苛立たせる可能性がある。
夏生は素直に顔を上げた。その瞬間だった、
「ちょっと!? 血が出てるじゃん!」
それまでは女王様のように偉そうに座っていた冴が、慌てたように飛びついてきたのだ。
目の上あたり、コップの破片で少し切れたのだろう。その傷口を確認するかのように、冴は夏生の頬を掴んで顔を近づけてくる。豹変した冴に驚いて、夏生は言葉すら出すことができなかった。
呆然としたままの夏生をしり目に、冴は一度部屋を出て救急セットを持って戻ってきた。どうやら処置をしようとしているらしい。
「痛っ、冴、痛いよ」
「じっとしてて、消毒してるんだから、目に入っちゃうよ」
滲んでいただけの血を拭き取り、消毒液が目に入らないよう、丁寧にガーゼで目を覆い、綿棒を使って慎重に消毒をする冴。本当に小さなかすり傷だったおかげで、そこまで血はでなかったし、処置も簡単にすんだ。
まさか怪我をさせられた相手から、その傷の処置をしてもらえるとは思っていなかった夏生は、処置をされている間、じっと冴を見ていることしかできなかった。
先ほどまでのなじるような表情ではない。今の冴を見ていると、真剣に怪我の心配をしてくれているように見えてしまう。
そんな冴の様子が夏生を混乱させる。普段は都合よく命令してくるというのに、どうして必死に処置をしてくれるのかと。
けれど同時に、夏生は昔を思い出して納得もしていた。
夏生と冴の関係は、初めからこうだったわけではない。
昔の冴は本当に心優しい少女だったことを、いつも一緒にいた夏生は忘れてはいない。
だから、こういうふとした瞬間に、夏生はあの頃の冴を感じてしまう。
本当は優しくていい子だと。
いつかあの頃のように戻ってくれるのではないかと。
夏生は今の状況に限界を感じていながらも、それでも長年共に過ごしてきた幼馴染のことを、心から嫌いにはなれていない。
ふとした瞬間に見せてくれる優しさに、ずっと引き留められてきた。
だから冴から解放されたいと本心から思っていても、同時に元の冴に戻ってほしいとも思っていた。
冴がこうなってしまったのは、自分に原因があるのかもしれないと、そう思って真剣に悩むほどに。
「はい、もういいよ。あとは血が止まるまで抑えてて」
「うん。わかった。ありがとう」
「あのさ……」
何かを言いかけた冴が言いよどむ。
珍しく気まずそうに顔を背けている様は、言いたい事を素直に言えない子供のよう。
それでもそんな姿はすぐに打ち消して、冴は先ほどまでのように、偉ぶって腕組みをした。
「冴?」
「なんでもない……その怪我、あたしは悪くないからね。もし誰かに言ったら、わかってる?」
「誰にも言わないよ。僕がよけれなかったのが悪かったんだ」
「なら許してあげますかね。あたしってほら、優しいから」
「うん。ほんとにありがとう」
夏生の返答を聞いて頷く冴。どうやら機嫌はなんとか回復したらしかった。
夏生が逆らわず、冴に従順にしているほど、冴の機嫌はよくなっていく。
まるで安心するかのように。
だから夏生は、いつものように素直に従う。
そうすれば、怒鳴られたり、さっきのように怪我をさせられたりすることはないから。
長年一緒に過ごすうちに苛烈になってきた冴のことが、夏生はもう怖かったから。
だからこそ、本当に冴から解放されたいとも思ってしまう。夏生がこんな生活に限界を迎えているのも、本当のことだから。




