DV心理(受)
「よーし、こっちは終わったよ夏生くん」
「ちょっと待ってね、うん、こっちもこれで終わりかな」
「おぉ~、夏生くんも仕事早くなったねぇ」
「そう? 自分じゃよくわからないけど」
「かなり早かったよ。まるで何か忘れたいことでもあるみたいに打ち込んでたから」
「そ、そんなことないよ、ただ集中してただけだって」
夏生は今、束の間の休息を味わっていた。
今日は担任からクラス委員としての仕事を振られていた夏生は、冴から離れ、こうして委員の仕事に励んでいる。
クラスに配布する行事の資料作成など、普通なら面倒に感じるような仕事だが、委員の仕事があるときだけは、冴も他の友達と先に帰ってくれるため、夏生にとって貴重な休息時間と同義だった。
放課後の静かな教室で、女子のクラス委員とふたりで黙々と仕事をこなす。
もう冬が訪れようとしている今、春から一緒にクラス委員をしてきた相手とは、特に気を使うことなく一緒に過ごせるくらいには仲はいい。
常に気を張っている必要もなく、怯える要素も一つもない。そんな相手と過ごす時間は夏生にとって、仕事をしているというのに、まるで夢中になって遊んでいるときのような感覚で時間が早く感じた。
「んじゃあとは、せんせーに提出して終わりだね。今日はどっちが行く?」
「僕が持っていくから、先帰ってて大丈夫だよ」
「いいの? なんかいつも持って行ってもらってる気がするけど?」
「いいのいいの。これくらいは任せてよ」
言うや否や、夏生は作ったばかりの資料を抱え込んだ。
少しでも帰る時間を遅くしたい夏生にとって、やるべきことは一つでも多いにこしたことはない。ほんのわずかな時間でも、冴の元から離れていたかったから。
押し問答が始まってしまうまえに教室を出た夏生は、薄暗い廊下をゆっくりと職員室へ向けて歩いて行く。
日暮れが早くなった空は、もうすっかりと暗くなっていて、その黒を見るだけで、夏生は急かされている気分になった。
早く帰りたくない夏生は、抵抗するかのように歩くスピードをさらに落とす。
自然と重くなっていく足を引きずるように、一歩、また一歩と踏み出す速度を遅くする。
それでも、そんな時間稼ぎはたかが知れていて、すぐに職員室についてしまった夏生は、担任に資料を渡して、最後の役目も滞りなく終えてしまったのだった。
「……はぁ」
職員室から出た夏生は溜息をこぼした。
手に持つスマホには、冴からの着信とメッセージが当然のように入っている。
既読をつけないように開いてはいないが、夏生には見なくても内容が手に取るようにわかる気がした。
教室に戻りながらも、夏生の口からは何度も溜息がこぼれだす。
それだけの苦悩が今の夏生にはあったから。
それは当然だが、冴のこと。
最近、冴の横暴は、また少し過激さを増していた。
少し前のこと、土下座を強要された夏生が口ごたえをしたさい、冴に物を投げつけられた夏生は、顔にかすり傷をおった。
それまでも冗談のように軽く叩かれることくらいはあったが、ああいう経験は夏生も初めてのことだった。
あのときは冴が慌てたように手当をしてくれ、夏生も昔のような冴の優しさを感じれたことで、あまり考えすぎないようにしたのだが、それ以来、冴に手を出されることが増えたのだ。
今までだったらなじられる程度で済んでいたことでも、冴から普通に叩かれるようになった。
それも、今までのように冗談交じりではなく、本気の平手がとんでくるのだ。
一度スイッチが入ってしまうと、夏生が平謝りしても冴は止まってくれない。興奮気味に、自分は悪くないとまくしたてながら、容赦なく腕や身体を叩いてくる。
そうなってしまったら、もう夏生にはどうしようもなくて、冴が落ち着くまで、ただ謝り続けるしかなかった。
制服をまくれば、夏生の腕にはいくつも痣ができていた。
もう冬服になっているからいいものの、夏服の時期だったなら隠しようがないほど、夏生の身体には痣が残ってしまっている。
ただ夏生は、初めのとき以来、顔や頭だけは冴から一度も叩かれたことがなかった。
頭部は打ちどころによっては、重症になりかねない。だから夏生は、冴がイラつきながらも、一応の優しさを見せてくれているのだと思っていた。
ただそれでも、頻繁になってきた暴力が怖いことに変わりない。
本心では冴から距離を取りたい。そうは思っていても、その行為が冴をさらに怒らせてしまうことも理解している夏生には、自ら地雷を踏みに行くような行為はできなかった。
それに、冴は落ち着いたあと、いつも手当をしてくれるのだ。
昔の冴を知っている夏生には、心配して手当をしてくれているときの冴が、あの頃に戻ってくれたようで、受けた傷を許せるくらいには嬉しかった。
それに、手当をしてくれるからには、きっと冴だって本当はこんなことをしたくないのだろう。冴は本当なら優しいから。
それでもこんなことをさせてしまうほど怒ってしまうのは、ひとえに自分が悪いからなのではないか。夏生にはそう思えて仕方がなかった。
だから自分がおかしなことをしなければ、冴はきっと優しいままで、昔のように楽しくふたりで過ごすことができるかもしれない。
けれどやっぱり、染みついた冴への恐怖心は綺麗に消えてはくれず、そんな希望と恐怖の板挟みで、夏生はどうすることもできず、ただ日々を過ごすしかなかった。
「……あっ」
静まり返った教室に夏生が戻ると、手に持ったままだったスマホが振動した。
画面に通知されているのは、もちろん冴からのメッセージ。
時計を確認すれば、まだもう少しなら、クラス委員の仕事を言い訳にできそうな時間帯。
もう少し落ち着いていたくて、夏生は既読をつけることなくスマホをポケットにしまい込む。
そうして、自分の席に腰を下ろし、ただ無意味に時間を潰そうとしていた夏生が、もう一度盛大な溜息をついたときだった。
「うわぁ、すっごい溜息、幸せかなり逃げたんじゃない?」
誰もいなかったはずの教室。だからこそ夏生は陰気な空気を遠慮なく振りまいていたのだが、どうやらこの場には、他にも人がいたらしい。
急に後ろから声をかけられた夏生が驚いて振り向けば、そこには先に帰ったはずの、もう一人のクラス委員の姿があった。
「どしたの? 悩みごとかい?」




