9時限目・天皇宗教権威化の完成とロシアとの接触
さー、授業の時間だー
さて、今回からは18世紀だな。ヨーロッパでは近世と呼ばれる時代になるが、日本はどうだったか。
時代区分がヨーロッパ基準の話だから、日本に当てはめる事が中々に難しい。
ある人からすれば、革命や独立戦争が無いから18世紀の日本は近世じゃないって言うし、違う人は、宗教を全て天皇に集中させた事で政治と切り離したから近世に入っているって言うしでバラバラなんだ。
教科書も、あえて中世、近世には触れず、鎌倉時代の宗教の勃興の話でボカし、工業化して近代化が始まる19世紀から近代って言い出す始末なんだよなぁ。
日本の歴史区分に近世を当てはめるのは、こんな感じで中々に難しい問題だ。
先生か?
どっちでもイイんじゃね?
とは言え、革命や独立戦争より宗教問題を重視するかな。
だろ?
信忠の宗教問題なんて、本来教える必要は無いからな。
だが、それで通るのは日本だけだぞー
特に、17世紀末頃に成立したと言われている回教寺派なんて、中東じゃなかなか通じないモノなんだ。
不思議に思わないか?
日本じゃキリスト教もイスラム教も仏教だって普通に存在しているだろ?
ヨーロッパ周辺じゃ、未だに争いが絶えないのにだ。
日本周辺で見ると、スールー王国や呂宋南部のモロなんかがイスラム教だが、キリスト教のスペイン系呂宋人と仲良くやってるだろう?
アレは信忠が始めたキリスト教国教化の先にある成果だな。
東南アジアに多数の日本人町が出来ると、当然いろいろな事が起きる訳だ。
そんな中にひとりの僧が居た。
今じゃイスラム名で羅尋としか遺って居ないが、元は仏僧だった人物らしい。
イスラム教に触れ、改宗してイスラム僧になったが、教えと熱帯の生活があまりに乖離していてコレジャナイって考えた。
そこで、聖典の解釈を熱帯の生活に合うようなものへ変えていった訳だな。
当然だが、時あたかも17世紀、朝廷へ宗教権威を集めている時期の仏僧だった彼は、そんな日本仏教の考えも取り入れて行った。
豚はともかくアルコールは乾燥地帯と熱帯の違いを考慮し、保存料として認める。
まあ、これが回教寺派が中東の宗派から嫌われる一因なんだが、嗜好品ではなく保存料として認めるって考えはアルコール分を含む食品の普及に役立ち、生活を豊かにしたのは間違いない。
こうして信者を増やした回教寺は、当時の流れに乗って天皇を頂点と仰ぐ様になった。
この考えは回教寺派だけでなく東南アジアで広く受け入れられ、日本に帰属こそしないが、スールー王国やインドネシア、マラヤという友邦を生み出す事に繋がっている。
日本仏教の考えを取り入れているから中東のイスラム教と回教寺派の考えはかなり開きがあって、回教寺は南蛮寺とも良好な関係にある。
そら、どちらも天皇を仰ぐのだから対立する必要も無いからな。
これが、ヨーロッパや中近東から見れば東アジアは異世界って認識にも繋がって来る事になるんだな。
だから、お前たちもその事はしっかり認識しておいた方が良いぞ?
それと、人種。というか、日本人にはまったく意味不明な肌の色による差別だな。
日本には様々な肌の色をした人が居る。
北はチュクチから南は英保里やマオリまで居るんだから当然だが、これは世界的にも珍しい事なんだ。
日本は1652年には奥南洋の血を持つ武田信春が少将となって南大孤島の統治者となった。
彼の血筋や真田昌繁の血筋は英保里だから、肌の色が日本列島や北方諸民族と違い黒いな。
だが、もう400年近く同じ日本人として暮らしているから、我々には違和感がない。
せいぜい「あ、南方か」とか「北氷道か」くらいの話だ。言葉や肌の違いは話のネタでしかないな。
これも、日本以外では差別になるから気をつけろ?
そんな18世紀初頭の日本は、ようやくマトモに世界を知る様になっていく。
17世紀は、良くも悪くもヨーロッパが戦争ばかりやっていたからあまり関わる必要がなかったんだな。
スペインなんて、アジアに大軍を送る余裕がないから適当に誤魔化してマニラ総督府の既成事実を積み上げる事に熱心だったくらいだ。
高山国を見て、オランダやイギリスも北上しては来なくなっていた。
そんな平和な時代だった訳だ。
だが、北方にはロシア人がやって来る様になった。
北極圏付近の川伝いに北氷道まで達し、無主地と考えた彼らは領土化を図る様になった。
鎮北将軍伊達家は、もっぱら阿羅斯加での探鉱に精を出していて、北氷道の巡回はあまりやっていなかったんだな。
東へ進み過ぎた弊害だった。
そこへ、ある意味助っ人として現れたのは、ご存知水野家だ。
そう、熊も逃げ出す水野衆だ。
水野勝成が、自分の趣味でやり始めた三丹探索に家臣や息子を連れまわしているうちに、熊より恐ろしい集団となり果てていたんだな。
それがそのまま代を重ね、三丹で活動する大将軍家の配下って事で三丹奉行なんて役職まで付いていたくらいだ。
当時の三丹は、泥色川を境に西と南は清、北は三丹と言う住み分けがなされていた。
住み分けであって明確な国境が定まっていた訳じゃない。日本には陸上国境の概念がまだ無かったからな。
清相手にはそれで通用したんだ。
しかし、ロシア人はそうではなかった。
水野衆が各地でロシア人と遭遇するようになり、あまりにも回数が多いので周辺の野蛮部族ではないと判断するまで10年を要した。
まあ、さすが脳筋だけあってそれだけの時間が掛かったんだな。
だが、その報を受け取った大将軍も、あまり状況を理解していなかった。
北氷地方で国と言えば清くらいなもので、幕府は外国とかかわりをほぼ持たずにここまでやって来ていた。
精々、鎮北将軍が阿羅斯加の先でスペインと関わっているだけだったしな。
そんな事もあって、尾張までその報が届くことはなく、より西へと根拠地を求めて探索が行われるようになった。
だが、水野衆が考えたよりもロシア人の拠点は北に位置していた。
ロシア人は川を伝い、バイカル湖からレナ川を北上し、その中間地点にヤクーツクと言う砦を築いていたのだが、17世紀中はその事に気付くことはなかった。より南方ばかりを探索して、ロシア人狩りを行うだけに終わっていたんだな。
そこでついた名前が、クビカリだった。
実に当時の水野衆らしい名前だな。
そして1702年、ようやくヤクーツクを発見し、そこから百年に及ぶ戦争が始まった訳だ。
これが、日本が経験するヨーロッパ諸国との最初の戦争だった。
おっと、もう時間か。




