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10時限目・南方移民時代

 はいはい、授業の時間だぞー  


 さて、前回は徳川幕府がロシアと接触した所で終わったな。


 なんで100年も争いが続いたのか。


 それは双方が相手を国家として認識していなかったからだ。


 ロシアにおいて、クビカリとの接触は、シベリア探索における障害という認識だった。


 彼らからしてみれば、南にあるらしいチャイナの影響を受けた北方異民族という認識だった。


 何せ、間接的にではあるが、彼らはその辺りを確認していた。

 チャイナはクビカリではないってな。


 だが、まさかその東にあるジパングが海を渡り寒凍(シベリア)に入っているとは思ってもみなかった。


 スペインは何か知っていたかも知れないが、そこまで伝えていなかった。

 スペインやオランダからしても、まさか日本が輸出する俵物の産地の近くまでロシアが迫っているという危機感は持っていなかった。



 徳川幕府は、清以外の外国が大陸北方に存在する事を考慮に入れていなかった。

 あくまで、大陸文明の影響を受けた周辺部族と考え、征夷大将軍の任として討伐、服属を目指して行動していた。


 織田政権にとっても、北方の事にはあまり関心が向いていなかった。

 海産資源や鉱物資源は確かにあるが、もはや北の浦(シアトル)南の浦(サンフランシスコ)という遠方にしか入植地はなく、南大孤島(オーストラリ)常春諸島(ニュージーランド)の様な入植適地への関心が高かった。


 それもそのはず。


 18世紀初頭と言えば、富士山噴火や飢饉で日本は大変な時期だったからな。


 馬鈴薯(じゃがいも)甘薯(サツマイモ)、ライ麦の導入で人が増えすぎていたからその対応に追われていた。


 この事でさらに南へと人が渡って行く。


 すると、武田家や羽柴家で問題が起こり、尾張はその対応に頭を悩ませるという繰り返しだった。


 ヨーロッパの戦乱が収まりスペインがマニラを取り戻そうとしたのもあっただろう。


 大陸では鄭領が正式に定まり、東莞から輸出される香木の交易権でオランダと対峙するようにもなった。


 ここではじめて、日本はヨーロッパの法規範を知る事になる。


 その助けとなったのが、南蛮寺派であったのは幸いだっただろうな。


 自国にヨーロッパの知識、常識に通じた者たちがいた事で、オランダとの交渉は上手く運んだ。


 そこにスペインを噛ませ、呂宋や南洋の実権を毟り取るだけの余裕さえあったほどだ。

 この頃はオランダ海上帝国の最盛期でもあったから、日本にとっても外交面では安全な時代だったんだな。


 こうして、呂宋は形式的にマニラ総督府が残り、貿易事務所として活動するだけの場所となっていく。


 マニラの造船所も鎮南将軍が拡張し、改良が加えられた九鬼船が次々と建造されていた。


 アカプルコ航路はこの九鬼船が主に使われ、スペインが購入し、船長や航海士など極一部を除いてほぼ南洋の日本人によって運航されていた。


 アカプルコのスペイン人たちは、マニラの連中は沢山の奴隷を従えていると驚いたのだが、実態はお飾り船長に過ぎなかったんだな。


 アカプルコでの貿易に都合が良いからスペイン人を乗せ、交渉窓口にしているに過ぎない。


 アカプルコを離れたら肩身の狭い籠の鳥だなんて、もう少し後までスペイン本国には知られていなかった。


 ヨーロッパの歴史書なんか、ハワイ諸島や南大孤島(オーストラリ)常春諸島(ニュージーランド)の発見は、全てスペイン人となっている。


 中身がバレた今でも、それを修正しない連中がヨーロッパには居るくらいなんだ。


 こうして、アカプルコ航路での貿易には、いつの頃からか南大孤島や常春諸島産の羊毛が加わっていく。

 その事がスペインにも富をもたらしたから、スペインとしても日本と事を荒立てたくはなかったんだろう。

 そんなスペインは、牧畜技術や毛糸加工技術を日本へともたらしてくれた。

 今でも、日本産の羊毛をスペインメーカーが利用するのは、この頃からの繫がりあっての事なんだ。


 南大孤島の英保里(アボリジニ)や常春諸島のマオリも、日本に降り狩猟採集から農耕へと生活を変えていったんだ。

 日本人だけだと逆季町(メルボルン)干河洲(パース)まで入植は出来なかっただろうと言われている。

 英保里(アボリジニ)の人口は元々100万弱は居たかも知れないと言われている。そこへ日本人が入り、一時は天然痘などの外来病で減るも、半世紀もすると牧畜や麦作を行う様になって200万人ほどに達していた。

 彼らの助けがあって、移民した人たちは生きていけたんだな。

 まあ土地の広さからすれば、受け入れた300万人ですら余裕だったしな。

 とくに干河洲(パース)などは、水の確保から真田家、ひいては英保里あっての入植だったんだ。


 そんな暖かい地域に尾張の目が向いていた時代、水野衆を中心とする幕府軍は、ヤクーツクから東や北へ向かうロシア人たちと戦っていた。


 さっさとヤクーツクを奪えって思うだろ?


 だが、徳川幕府の考えは、陸上国境ってものにあまり理解がなかったから、レナ川を境と考え、渡って来なければそれで放置していたんだ。


 レナ川が日ロ国境になっているのは、この時幕府がそうしたからだ。

 後からもっと西進しておけばって声が出てくるが、現状維持を選んでしまった時点で、決まっていたんだな。

 もし、秀康の家系が絶えていなかったら、西へ冒険に出たかも知れないが、徳川大将軍家は三河松平家の家系だ。

 織田に睨まれた家系は、冒険に出るより現状維持を選んだんだな。


 まあ、でも良いじゃないか。


 阿羅斯加(アラスカ)南の浦(サンフランシスコ)でしっかりと金を採掘したんだから。


 先生はそう思うな。


 おっと、もう時間か。


 じゃあ、今日はここまで。

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