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11時限目・日本列島開発

 授業の時間だー


 18世紀の日本は飢饉で混乱していた。


 それが一般的な捉え方だが、必ずしもそれだけじゃなかったんだ。


 日本列島が飢饉で喘いでいると、何がどこからやって来る?


 そう、すでに100年前から高山国(台湾)へ入植しているじゃないか。

 北海道だってそうだ。


 亜熱帯の高山では米がとれているし、北海道だってイモがある。


 日本列島が飢饉だった原因は、人減らしを優先するあまり、農業改革や治水が後回しになっていたからだ。

 日本列島でもイモの栽培がはじまり、人が増えすぎていた。

 その増えすぎた人々を各地へ移民として送り出す事で安心してしまったんだな。

 

 日高見(北海道)や樺太ではすでに開拓の成果があらわれていたんだ。


 日高見では石狩川の治水で農地が広がり、気候から米こそ難しかったが馬鈴薯(じゃがいも)、大豆、麦、ソバの生産が爆発的に増加していた。


 樺太でも幌内川の治水でずんだを中心に、ライ麦、馬鈴薯、ソバの生産が進んでいた。


 この頃の徳川幕府は、北方探索を鎮北将軍に半ば丸投げし、日高見や樺太開墾に取り組んでいたんだな。


 高山国でも羽柴鎮守府が開墾を進めて米の生産が急伸していた。


 言ってしまえば、織田政権や商人からすれば列島の治水や農業改革なんかやらずとも、勝手に成果や儲けが転がり込んだんだ。


 だから勘違いしてしまった。


 鎮南将軍に大権を与え、信晴の冒険を放置し、南洋(マリアナ)奥南洋ミクロネシア東天竺(ポリネシア)探索を認め、あまつさえ南大孤島(オーストラリ)へと再興した武田家を入封させたんだから。


 だが、未曽有の飢饉でようやく足元の脆さに気が付いた。


 尾張や摂津は高山や南方から船が着く大港湾都市となっていたから、その時点で信忠が始めた街道はしっかり整備されていた。


 が、河川改修は石狩川や幌内川ほどには進んでいない。


 飢饉で街に人があふれていた事もあり、ようやく足元の整備を始めた訳だ。


 あまりに技術者がいなかった信銀(のぶかね)は、治世の賢人信義の知を受け継ぐ甲州守に頼るしかなかったんだな。


 ここで外様の徳川に頼るなんて出来ないのだから。


 こうして、木曽三川の治水が進み、名古屋が大都市として発展する土台が完成するのは、18世紀半ばの事だった。

 同じ様に淀川の治水工事も進められ、巨椋池運河が完成したのは1783年だった。


 こうして、京から摂津にかけての水運が整えられ、今の姿が造られたんだな。


 この事業には、スペイン人技術者も招へいされていたそうだ。


 そんな高度な技術を学んだ者たちが各地へ散らばり、様々な土木事業を手がける事になるんだが、その中には当時世界一に挑んだモノがあった。


 それが満濃池だ。


 今の満濃池は1763年に完成した石積みアーチダムなんだが、これは、スペイン人技術者がもたらした技術を讃岐へと持ち帰った道知団兵衛が完成させたんだ。


 ん?


 ああ、満濃池は空海が作ったんじゃないかって?


 満濃池が誕生したのは700年頃、当時の国守が築造したのが最初だ。


 その後、821年に崩れた池を3か月で直したのが空海なんだよ。


 空海が築造した訳じゃない。


 さらに1184年の水害で壊れた後、18世紀の治水工事まで池は壊れたままとなり、元の池には村ができあがっていたそうだ。その名も池内村だ。


 空海が再建した時の堤高は22メートルだったと言われている。


 道知はスペインにあるティビダムに挑もうとしたらしいが、満濃池では地形から高さがあと10メートル足りなかったんだな。


 それでも、最新の技術と自らの工夫を凝らして堤高32メートルのアーチダムを完成させた。


 貯水量はティビダムを超える見事なダムとなったが、彼は納得しなかった。


 讃岐の水神様とまで呼ばれる彼は、各地にため池を作りまくったが、どれもティビダムを超える堤高にはならなかった。


 そして最後に挑んだのが、内場池だったんだ。


 とうとうティビダムの堤高43メートルを抜く45メートルを実現したのだが、1788年、完成を見届けた道知団兵衛は87歳の生涯を終える。

 もはや執念だったんだろう。


 彼は死の間際にも新たな構想を書き留めている。


 讃岐導水計画だ。


 お隣阿波は吉野川から阿讃山脈を貫き水を引くという、当時としては夢想にも等しい話だったが、20世紀に実現しているんだから凄いよな。


 さすがに、早明浦ダムが彼の構想にあったとは思えないが。



 こうして、織田政権お膝元で事業が活発になると、これまでなら埋もれていた様な人材が次々と現れてくるようになった。


 道知団兵衛が活躍していた頃に産まれたのが、江戸湾工業化のキーマンとなった飯塚伊賀七だ。


 木曽三川工事によって多くの技術者が誕生し、その刺激を受けた人々が各地で活動するようになり、影響を受けた人物だった。

 彼は多芸で、和算、洋学、暦学、建築などを学んでいる。


 飯塚家は、惣配置令によって関東から有力な大名や豪族が東北や北海道へと配置、転封されてしまった後、筑波の地において大名主として豪族の代わりを担った家柄だった。

 そこに産まれた伊賀七は、関東大河川事業を目の当たりにし、自らも後に参加する事となった。


 この事業で利根川は江戸湾ではなく、銚子へと注ぐようになったんだ。


 数理に強かった彼は、築造する堤防の高さや幅の計算までこなしていたという。


 40の頃までは関東大河川事業に参加し、おおよそ改修が済むと郷里へ戻って様々な発明を行っている。


 彼が興味を抱いた中でも、後世に大きな足跡を残したものが蒸気機関だった。


 ヨーロッパで開発が盛んだった蒸気機関の断片的情報から、様々な道具やからくり人形を制作していた彼は、米つき水車から発想したワット機関同等の高効率蒸気機関を完成させた。


 これが日本の蒸気機関のはじまりであり、以後、筑波が動力機関開発の中心地となっていく礎となったんだな。


 そして、江戸の河川改修が無事に終わると、水運が便利な江戸湾岸へ工場が作られ、今の江戸湾工業地帯の基礎となった。


 日本で初めて自動車を作ったのも、蒸気船を作ったのも、まさに伊賀七だったんだ。


 からくり伊賀七として有名なだけでなく、スチーム伊賀七といえば、メジャーなゲームキャラだから、みんなもよく知っているだろう?


 おっと、今日はここまでか。  

 実際の満濃池は、1631年に生駒氏の命によって再建されているが、この世界ではそれに従事した西嶋八兵衛が讃岐には来ないだろう。生駒氏が讃岐に入るかも分からない。


 満濃池を再建した西嶋八兵衛は、藤堂高虎の家臣にして縁者なので、この世界では台湾での開拓事業で活躍しているんじゃないかな。


 香川にはもう1人、矢延平六と言う人物も居るが、彼は下館藩主松平頼重の家臣であったとされ、この物語世界では、香川に関係する事はないと思われる。


 こうして、香川のため池を作った偉人ふたりが香川と縁が無くなったので、架空の人物、道知団兵衛(ドッヂだんぺい)がその役割を担う事になった訳で・・・



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― 新着の感想 ―
先にあちこち探検してるから、マンモスやネアンデルタール人、ついでに恐竜系やら謎の遺跡発見ルートも面白そうな。
ドッジ弾平とはまた随分と懐かしい名前だ。もう三十年以上前の漫画になりますか。 そして海外領土への移民に重点を置き過ぎておそろかになってた本格的な本土開発が始まりましたか。 蒸気機関も出てきたし、この…
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