12時限目・べらんめぇ伝説
はいはい、授業の時間だぞー
前回は18世紀の日本列島についての話だったな。
飯塚伊賀七が活躍するのは実質19世紀前期だから、先走りすぎた。
さて、では18世紀の話だが、今日は有名人の話になる。
平賀源内だ。
彼は樺太の幌内で産まれた。家の姓は白石と言ったが、源内によると元は信濃は佐久の平賀氏だったそうなんだ。
平賀氏は武田家に滅ぼされ、生き残りは奥州白石へ落ちのび、伊達氏に仕えた。
知っての通り、伊達氏は惣配置令によって北方へ転封となり日高見や樺太を探索し、多大な成果から北方鎮守府将軍となった。
本家は鎮北将軍として勘察加や阿羅斯加探索を行い、北の浦や南の浦へも至っている。
だが、白石家は分家に従い樺太で開拓や樺太アイヌの取り込みに当たっていたんだな。
そして、幌内川治水工事に関わり、大豆ならぬずんだ畑の管理を任されていた。
源内は子供の頃から手先が器用で、農具の改良や細工をしていたらしい。
そんな源内は豊原で学問を学ぶ機会を得て、本草学を学んでいる。
ちょうど幌内だと様々な植物が生えた原生林があるしな。
だが、それに満足しなかった源内は、豊原を飛び出し尾張へ向かう。
1750年頃の事だったらしい。
家督は妹に婿を取らせて譲っての事だった。
ちょうどその頃、尾張は木曽三川事業で沸いていたし、スペイン人を招いて様々な学問所が開かれていた。
源内はそこで地質学を学んだ。
1756年には札幌まで戻り活動を始めたが、すでに日高見や樺太の探鉱はあらかた行われた後だった。
そこで、源内は鎮北将軍へと願い出て北方探鉱へ加わったんだな。
勘察加や阿羅斯加の探鉱も一段落ついていたので、源内は南の浦へ渡って活動に加わっている。
分家の家臣とあって重要な勘察加や阿羅斯加を任せなかったなんて話もあるが、それが幸いしたのかも知れない。
1758年には、知られている通り山脈の麓にある川筋で金を発見する。
この発見で南の浦はまたたく間に人が押し寄せる地となったんだ。
鎮北将軍によって北海道や北氷道から多数の人夫が送り込まれ、鎮南将軍も人を送り込んだ。
こうして、20年の間に30万人が南の浦へと渡って金採掘に従事する事になった。
この話が日本だけにとどまるはずはなく、スペインやイギリスにも知られている。
スペインはアカプルコ航路を事実上奪い取られているので何か出来る訳ではなかったが、イギリスは1770年頃から北アメリカ周辺へと私掠船を繰り出して来るんだ。
幸いかな、金の輸送は鎮北将軍配下が担っていたのでイギリスに奪われた金はほぼ無い。
当時のイギリスは、まさか気候の厳しい奥千島諸島周辺を航路として使えるなんて想像すらしていなかったからな。
そんなイギリスを尻目に、鎮北将軍は北太平洋航路によって、大量の金を日本へと持ち帰った。
そうとは知らないイギリスは、アカプルコ航路で待ち構え、多数の九鬼船を襲ったんだ。
鎮南将軍も黙ってやられるだけではなく、しっかり武装強化を行ったんだな。
そう、有名な国友風銃だ。
当時の鉄砲は筒先から弾込めするのが一般的な時代で、ヨーロッパでは趣向を凝らした火打石式元込め連発銃が開発されている。国友でもいくつか元込め連発銃はあったが、複雑高価過ぎて一般兵に渡す様なものじゃなかった。
武具展なんかで刀剣や甲冑と並んで展示されているやつだ。
しかもアレ、火薬を大量に銃床へ詰めてあるから爆発しやすかったらしいぞ。
戦いの場で火を気にしながら使うなんてやってられないから、武将も実用品とは見なしていなかった。
これではさすがに使えないと考えた国友の鍛冶師は、当時ヨーロッパで流行っていた風砲に注目して実用的な武器として完成させたんだ。
ちょうど、イギリスの私掠船が暴れ出した1772年の事だった。
ヨーロッパでもすぐ後にジランドーニ空気銃が完成しているな。
鎮南将軍は火薬を使わない新しい武器に注目し、アカプルコ交易に就く船へと配備していった。
いきなり武器の話が出たのは、知っての通りだ。
1774年、源内は南大孤島行きを決意したからなんだ。
イギリスの私掠船が徘徊する海上へと飛び出した源内は、やはりというか、私掠船と遭遇した。
風銃の配備された九鬼船に乗り合わせた源内は、私掠船を撃退する船乗りたちに感銘を受けたらしい。
着脱式の銃杖や銃剣を考案したのは、この経験あっての話だったんだろうな。
私掠船を撃退した九鬼船は、順調に奥南洋まで進み、源内はそこで南大孤島へ向かう船に乗り換えた。
それが彼の運命だったんだろうな。
源内はすでに街が形成されている大江戸を目指したかったらしい。
しかし、気の急いた源内は、南大孤島行きと聞いて、ちょうど居合わせた船に飛び乗ってしまったんだな。
大江戸や常夏町へ向かう船が立ち寄るのは、ひと月は先って聞いたのもいけなかった。
まあ、今を生きる我々にはそれで良かったんだが。
こうして源内は、干河洲へと向かう。
源内が聞いていた南大孤島の姿は緑豊かな大地だったのだが、奥南洋を出港した九鬼船は、緑豊かな島々を後にし、いつの間にやら荒野しか見えない沿岸を南下していた。
当時の干河洲はまだ寒村に等しい場所で、源内が聞いていた緑豊かな大地ではなく、以前居た南の浦奥地と変わらないかより悪い環境だった。
そんな環境にも挫折せず、英保里の案内人を雇って探鉱に勤しみ、炭田や鉄鉱床を発見した。
源内は奥地探索も進め、1780年にケガがもとで破傷風で亡くなってしまうが、彼の功績から発見された炭田、鉄鉱床の開発を行う商人は、平賀鉱山と屋号を冠し今に続く資源開発企業を起こしたんだ。
もし源内が予定通りに東海岸へと渡っていたら、平賀鉱山は創業していなかったし、なにより、魅力に欠ける西海岸の開発は100年は遅れていたと言われているんだ。
100年後と言えば19世紀後半だ。下手をしたら日本の産業革命がそれだけ遅れていたかもしれないんだから、源内の功績がどれ程大きいか分かるだろう?
おっと、時間だな。




