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13時限目・世界の中の日本

 授業の時間だぞー


 さて、前回は平賀源内の話だったな。


 源内が南の浦(サンフランシスコ)奥地で金を発見してからしばらく、イギリスが活発に太平洋で活動したが、そこで判明したのは、すでに日本が多くの島々へと進出している事実だった。


 1770年代の南大孤島(オーストラリ)常春諸島(ニュージーランド)はすでに日本人で溢れ、イギリスの入り込む余地はなかった。


 それが弱小な国や未開の部族ならまだしも、私掠船を撃退するだけの海軍力を有していたのだから、下手に手は出せなかった。


 そんなイギリスは、北アメリカ植民地でアメリカ独立戦争が起き日本に構う暇がなくなった。

 だが、歴史とは何とも悪戯好きらしい。


 アメリカ独立戦争でスペインが独立派に着いたんだ。

 当時、ヨーロッパに流通していた砂糖がどこから運ばれていたか?


 それが、呂宋や南洋だったんだ。

 

 鎮南将軍がせっせと入植を進めた南洋、そして黒森島(ニューギニア)熱雨諸島(ソロモン)で盛んに栽培されていた。

 もともと、サトウキビの原産地が黒森島(ニューギニア)らしいし、やっている事は間違っちゃいなかったんだな。


 アカプルコからの帰りに南洋で砂糖を積み込み、さらに常春諸島(ニュージーランド)から南洋中継地へ運ばれた羊毛を積んでマニラへと向かい、一部は日本や大陸へ、そして残りをアカプルコへ運んでいた。

 羊は北海道でも飼っているから、羊毛の半分以上はアカプルコへ持って行ったらしい。


 スペインは、黙っていても砂糖と羊毛がアカプルコへ積み上がるんだから、笑いが止まらなかっただろうな。

 さらに、日本で砂糖をおろした代わりに高級な陶磁器まで積まれていた。

 呂宋を日本に管理させる対価としては、お釣りが来る様な儲けが出ていたはずだ。


 それに気を良くしたスペインは、イギリスから独立を目指すアメリカ13州への支援を行った。

 当然、イギリスはその阻止に乗り出したし、同じく独立を支援するオランダに対しては戦端を開いたんだ。


 第四次英蘭戦争だ。


 この時、イギリスは日本へと声を掛けた。


「東インドをやるからオランダを叩け」

 

 と。

 

 だが、そもそもアカプルコ航路を侵して損害を与えている加害者の言葉に、織田政権も鎮南将軍も耳を貸さなかった。

 東インドなんて日本人町が広がる庭なんだから、わざわざ侵攻する意味がないもんな。


 スルーを決め込む日本に対し、なぜかオランダから感謝される事にもなったが、日本はまだヨーロッパの事には無関心だった。


 関係ない遠方の話だと気にもしなかったが、それは突然起きた。


 1796年、フランス革命に介入していたスペインが敗れ、フランス側についたという知らせだった。


 織田政権は無関心だったが、鎮南将軍は無関心では居られなかった。

 スペイン本国が、砂糖販売の代理店として機能しない事は死活問題だ。


 そこで新たな販路として、鄭氏と関係のあるオランダへと声を掛けたのが1800年頃の話だった。

 それから数年、フランス・スペイン軍がトラファルガーの海戦で惨敗した事を知る。


 とうとう、日本とヨーロッパが直結する時代の到来だ。


 スペイン軍の惨敗は、イコールでアカプルコ貿易の終了を意味していた。

 さらに北米にも異変が生じた。メキシコ独立戦争の始まりだ。

 こうして、アカプルコ航路での貿易が難しくなった日本は、オランダ東インド会社を介した貿易を始める。


 そこで知らされたのが、ロシアが東方奥地でサムライの特長とよく似た部族と闘っているという話だった。

 織田政権が徳川幕府へ問うた所、まさしくコサックの特長を持つ部族と闘っている事が判明した。


 100年経ってようやく相手が誰かを知ったんだな。

 お粗末というか、これが当時の外交感覚だったんだ。

 ここで初めて、オランダを介してロシアと交渉が持たれる事になり、1812年、レナ川を両国の国境とする事が決まった。

 これは後々まで紛争のタネになる。何せナポレオンのロシア遠征さなかに締結されたんだ。ロシアには不満があったんだろう。


 日本はこの時はじめて、本当の意味でヨーロッパへ関心を持つことになる。


 ただの海賊としか考えていなかったイギリスが、かなりの強国と知ったのもそうだし、アカプルコ航路以外の交易ルートに政治が興味を持ったのもこれ以降の事になる。


 すでに、一部の商人たちはペルシャへ自ら出掛けていたが、日本として「世界」を把握し、世界における日本の位置づけを考え出したのは、ここからだった。


 それはまず、イギリスの貪欲さであり、進んだ工業力だった。

 スペイン相手の様にはいかなかったが、日本はイギリスとの通商を持つ事になる。


 さすがのイギリスも、スペインとの交易でヨーロッパのレートを知り、東莞香木交渉に際し、ヨーロッパの法規範を知っていた日本に不平等条約は提示出来なかった。


 やろうとは思った様だが、私掠船を撃退する武力を持つ遠国相手に戦争しても、利益は無いと判断していた。


 こうして、イギリスやオランダとの貿易が始まると、スペインよりも面倒な事が増えていく。

 もはや尾張の行政官では把握しきれない話になっていたので、鎮南将軍配下の交易奉行や南方日本人町で商いを行う大店へ、織田政権交易役を押し付ける事にした。


 そもそも、対外交渉は高山国鎮守府(台湾)羽柴家や南方鎮守府織田家の役割だと考えていたらしい。

 織田政権としてはそうだったが、問題はさらにメキシコ独立戦争が起きたことで北方鎮守府にまで及んだ。


 この頃の尾張織田家と南方織田家、羽柴家の関係だが、二、三度ほど尾張家から姫を娶った以外の関係はなく、南方織田家はもはや南方や南大孤島(オーストラリア)英保里(アボリジニ)の血が濃いほどだったし、羽柴家は南方織田家との婚姻関係はなかったが、呂宋運営を共同で行う密接な関係だった。


 尾張家との関係より、南方同士のつながりが強かったんだ。


 では、尾張織田家は孤立無縁かと言うと、そうではない。


 徳川幕府は蘭姫が家光に嫁いで以降、信忠の弟信孝の家系である東国織田家と関係が深まり、四度に渡って東国織田家から姫が嫁いでいた。

 北方鎮守府伊達家も似たようなもので、滝川、丹羽、柴田と言った尾張織田家の重臣との縁が深かった。


 日本の中で南北で考え方が大きくズレていくことになるんだが、それはもう少し先の話だ。


 その前に・・・っと、時間だな。  

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