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14時限目・産業革命

 さーて、授業だ。


 前回は織田家が南北で分裂の危機を迎えている話だったが、それは19世紀半ばに起こる話なので、まずは日本の工業化について話を進めていこう。


 以前話したように、日本の工業化は江戸湾から始まっている。


 そこでは「江戸のダヴィンチ」と言われるスチーム伊賀七が辣腕を振るっていた。


 和算にくわえて洋算まで修得した彼に、不可能の文字はなく。スペイン語に英語まで覚えて洋書を漁り、独自開発の蒸気機関を更に改良していた。


 その間にも荒川をはじめとする江戸湾岸での水車設置事業を行い、水力式動力を各地で構築し、手工業としての鍛冶屋から工業化した鉄工所へと変貌させていった。

 江戸湾と言うのは伊豆ジャワ航路にほど近く、干河洲(パース)などの南大孤島(オーストラリア)西海岸から積み出される石炭、鉄鉱石の入手がしやすい上に、釜石や日高見(北海道)からも鉄や石炭を入手できる絶好の位置だった。


 こうして江戸前鍛冶工房群は工業地帯として大きく発展していく。


 さらに、東関東ガス田という燃料供給地まで近くに存在する好立地なんだから、発展しない方がおかしかった。

 こうした環境で、スチーム伊賀七は思う存分蒸気機関の開発に没頭できた。


 そして、1826年には蒸気自動車の開発に成功し、川船に搭載して蒸気船として動かす事にも成功させる。


 もちろん工場の定置動力としても使える様になり、養蚕が盛んな内陸部、富岡に建設された近代製糸工場の動力にも利用されている。


 スチーム伊賀七は自家用車として自動車を乗り回したが、その用途もしっかり考えていた。


 利根川を中心とした川運における牽引車として運河整備と共に配置していく。


 当時の日本には鉄道は未だなく、専用道路を整備して牽引車として利用する事が主流だったんだ。


 この時造られた牽引車道路は後に、牽引軌道へと敷き替えられ、今にその道筋を残しているんだ。


 川船に載せた蒸気船の方もその後発展し、まずは幅の広い川や江戸湾内で利用されるようになる。川や干潟が多い浅瀬で運航する関係から外輪船ばかりが作られていたんだ。

 日本にスクリューが導入されるのは1860年頃になってからだから、これは仕方が無いんだが。


 さらにスチームと名がついているにも拘らず、彼は内燃機関の研究までやっている。

 未だ日本に圧縮による熱効率なんて理論が入ってくる以前、水鉄砲の原理でガスを吸い込んで内部で爆発させることを考えていたんだ。

 スチーム伊賀七が最初に開発した単動2気筒式蒸気機関を基に、気筒頂に熱した金属棒を配して駆動させるグローエンジンだった。

 試作はうまくいったが、潤滑と何より冷却がマズくて連続運転には失敗したらしいが、世界初の内燃機関の稼働成功だったことは疑いないと言われているんだ。

 

 実用的なガスエンジンが完成するのは、スチーム伊賀七が亡くなって20年が経った1856年の事だった。


 スチーム伊賀七が江戸で活躍している頃、讃岐にも「西国の伊賀七」と後に呼ばれる久米通賢が現れる。 

 道知団兵衛と同じ讃岐の人で、1780年の生まれだ。

 少年時代に摂津や尾張で学び、帰郷して様々な事業に従事している。


 折しも蒸気機関が開発された頃で、彼もスチーム伊賀七の単動2気筒型蒸気機関を入手し、模倣。海水組み上げポンプの動力に利用して、讃岐を製塩業のトップへと引き上げた。

 当時は揚げ浜式や入浜式塩田が一般的だったが、彼は流下式という新方式を導入して製塩効率を高めたことでも有名だ。


 そんな通賢は殖産だけでなく、自ら発明も行っている。


 その一つが、久米銃として広く利用されるリボルバーライフルだ。


 久米銃は普通のリボルバーとは違い、シリンダーの先端に真鍮のスリーブを設け、発射時にシリンダーと銃身に隙間が生じないように密閉する事ができる。

 当初はパーカッションリボルバー同様にシリンダーに火薬と弾を詰め、後部に雷管キャップを取り付ける方式だったが、後に薬莢式へと進歩するようになった。

 ライフルで分かるように、銃身には螺旋が掘られていて、量産元込めライフル銃としては元祖と言ってもいいような銃だったんだ。


 久米銃は国友で認められ、国友風銃に次ぐ主力兵器となっていく。


 リボルバー通賢の事は有名だよな?


 マニアックすぎ?


 先生悲しいなぁ


 そうはいっても、これが1820年代から半世紀も主力を張るんだぞ?


 まあ良い。


 こうした発展が可能になったのは、源内が膨大な鉄鉱床を発見していたおかげだ。当時としては無尽蔵とも言える鉄鉱石が南大孤島(オーストラリア)から日本へと運ばれていた。


 これが無ければ、日本の産業革命が半世紀は遅れていたとも言われている。


 考えてもみてくれ、日本列島の周辺で鉄鉱山がある大陸や半島は鎖国をしていて大量の鉄鉱石を輸入するのが難しい。

 まずは開国から始めないと何も進まないんじゃ、発展は遅れる一方だ。しかも、これ以降の歴史を見れば、悲観的な予測しか出来なくなるだろう?


 そう、日本が産業革命に沸いていた頃、清はアヘンに呑み込まれていたんだ。


 日本もイギリスも、その貿易相手は同じだった。


 おおむね東莞の鄭氏と取引を行っていた。


 清そのものは海禁政策をしているから、窓口となっていたのが鄭氏の治める自治領、鄭領東莞だったんだ。

 東莞自体は香木の集積地として古くから栄えていたが、さらに清の貿易を一手に引き受ける事になっていた。


 日本は俵物を輸出し、生糸を輸入していた。


 イギリスは紅茶の輸入を行っていたが、輸入に対して輸出品があまりに少なく貿易赤字を垂れ流すような状態だったんだ。


 それを解消するため、インドで栽培したアヘンを売りつける様になった。


 貿易赤字を解消するため清から茶の木も持ち出し、インドで栽培を始める様にもなった。

 それが、アッサム紅茶の始まりだ。


 イギリスは、日本とも茶の取引があったが、そちらは黒字が続いていた。


 日本産の砂糖や羊毛を扱うのは主にオランダ、そしてスペイン。イギリスは茶の輸入に対して工業機械をドンドン日本へと売っていたんだな。


 工業化が急速に進んだ理由の一つが、このイギリスからの膨大な工業機械の輸入にあった。


 ただ、清に対して同じことは出来なかった。まだ産業革命が起きていないから、工業機械の需要が少ないんだから仕方がない。


 まあ、日本だったら粉は粉でも、南洋で生産される砂糖を売ってるんだろうがな。


 そうして起きたのがアヘン戦争なんだが、これが織田家分裂を決定的にした。


 覚えてるか?


 援明軍が撤退する際、舟山諸島を日本が組み込んだことを。


 イギリスは、清との戦争に際して沿岸島嶼部を売却するよう日本へと持ち掛けた。


 対価は最新の製鉄技術や船舶技術と言う目が飛び出る様な破格の条件だった。


 織田政権はこの条件に飛びき、高山国(台湾)鎮守府や鎮南将軍の反対意見を聞き入れなかった。


 ここで餌に飛びつき大陸沿岸島嶼部をイギリスへと売却した。


 まさか10年後、常春諸島(ニュージーランド)を寄こせと言われるなんて想像もしていなかったんだろうな。


 イギリス外交(ブリカス仕草)を知っていた羽柴家や鎮南将軍が反対したのも当然だ。


 1851年の日英戦争は、アヘン戦争前に気前よく舟山群島や金門島をイギリスへと売り渡したことで起きたんだ。


 おっと、時間だな。

 

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― 新着の感想 ―
ブリカスに海外進出のための橋頭保を与えるような事をするのがどれだけ不味いか前線の台湾や鎮南将軍はよく理解してたけど、後方の織田政権にはわからなかったか。
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