15時限目・5月の政変
授業を始めるぞー
さて、前回は織田家分裂の話だった。
でも、あれ?って思っただろ?
そうなんだ。確かに分裂を決定的にしたのは、舟山群島や金門島売却だった。
もしそれだけなら、話は政争に収まっていたんだろう。
実際、アヘン戦争で分かったのは、イギリス軍の強さよりも清が弱体化している事だった。
ここで考えるのは、鄭氏が明再興に動くかどうかだったんだ。
だってそうだろう?
鄭氏は何の為に東莞に領地を得て、これまで富を蓄えて来たんだ?
だが、鄭氏は動かなかった。
その理由を羽柴家や鎮南将軍は知らされていた。
動かないんじゃなく、動けなかったんだ。
「まだ準備が整っていない」
ってな。
鎮南将軍は独立したメキシコと接触し、アカプルコ貿易に替わるモノを探していたから、大陸へ利益以上の支出にならなくてホッとしていた。
この頃、太平洋にアメリカが現れだしていたんだ。
アメリカの目的は分かり切っていた。北の浦の回収だ。
アヘン戦争頃にはアメリカからの接触があり、尾張は売却に好意的だった。
もちろん、鎮北将軍としては絶対反対の立場だったんだ。
こうして、織田家の対立は明確な南北対立から様相が一変する。
ちょっと考えてみてくれ。
1840年頃、日本で船を運航していたのは誰だ?
そう、鎮南将軍だな。それだけか?
誰が北太平洋航路で金を日本へ運んだんだ?
そうだ。鎮北将軍だ。
当時の日本には、鎮南水軍と鎮北水軍という、大きく分けて二つの大水軍衆が居た。
たしかに、尾張織田家の直卒する水軍衆も伊勢には居たし、徳川幕府も水軍は有していた。
だが、伊勢にいた九鬼水軍はもはや沿岸警備や水難救助くらいの規模でしかなかったし、幕府水軍も日高見と樺太周辺に配する小規模な勢力だった。
高山国にも水軍はあるが、鎮南将軍の支持勢力だ。
織田政権は完全に情勢を見誤っていた。
ただ、伊達家が反対しているので北の浦売却が決まる事は無かった。
そうした問題が起きている時、アメリカはメキシコと戦争を始めたんだ。
もっとひも解けば、1836年にはテキサスへ侵入した不法移民たちが独立を宣言し、アメリカやヨーロッパ列強が支持、承認していた。
メキシコ自体も安定しているとは言えない状況の中、1846年4月には、南の浦の眼前でアメリカとメキシコの争いが始まってしまう。
当時は既に金の採掘は終っており、金産出の話を聞きつけたアメリカ人やスペイン系白人の流入で、日本人の居住地域は南の浦周辺だけに狭まっていた。
織田政権は、北の浦を売却してもマニラ総督府やオランダ領内の日本人町のように自由な居住や交易が出来ると楽天的に考えていたが、伊達家を抜きにアメリカとイギリスが周辺地域の領土確定の話し合いを続けており、伊達家の抗議自体が受け入れられていなかった。
当然、鎮南将軍は同じことが南の浦で起こると予想し、尾張へと警告していた。最悪の場合、鎮南水軍を出してアメリカ軍を撃退する考えだったんだ。
まず動いたのは、北の浦だった。
1846年6月、イギリスとアメリカは伊達家抜きで領土確定に署名した。オレゴン条約って奴だな。
ここで鎮北水軍が動き、イギリス、アメリカに対して示威行動を行った。
だが、湾内への進入は果たせず、太平洋上に留まるしかなかったが、圧力のかいあって8月には浦前の岬を日本領とするバンクーバー条約が結ばれ、イギリスとの間には一応の決着がついたんだ。
だが、北の浦にあった町の権利はアメリカが一切認めなかった。再度、売却による解決を提示して来たんだ。
織田政権はここで戦争する事を選ばなかった。
いや、200年間戦いから遠ざかっていたから、そんな選択肢すら存在しなかったんだな。
たしかに、織田政権が考えた通り北の浦へ送れる兵力は明らかにアメリカ優勢だったのは確かだ。何よりあちらは陸路、こちらは海路だ。
だからと言って何もせずに金で解決ってのは流石にどうかと思うがな。
そして、メキシコとアメリカの戦争も半年ほどで決着がついた。
こちらも鎮南水軍が南の浦沖へと陣取ってアメリカ太平洋戦隊を圧倒していた。
やろうと思えばアメリカ艦隊を半年で壊滅できたと言われているんだが、織田政権はそれを選ばなかった。
こうして、南の浦の売却も提示され、織田政権としてはかなり頑張って北の浦と合わせて800万ドルまで値を吊り上げることに成功した。
こうして、1848年2月、サンフランシスコ売却条約によって、北の浦、南の浦を800万ドルでアメリカへ売却する事が決定するんだ。
鎮南将軍は「殺れる相手の首も取らんとはどういうことだ!」って怒ったんだが、国の代表は尾張の織田政権だから、何も出来なかった。
こうして、阿羅斯加を除いて北アメリカの領土を失った。織田政権も阿羅斯加をアメリカに渡す気はなかった。
なにせ、阿羅斯加や奥千島は資源枯渇気味の北氷海に代わる俵物産地と認識していたらしいからな。
そんな身勝手な織田政権に対し1849年5月、羽柴家、南方織田家、伊達家が結束して伊勢湾へと押し掛けた。
世にいう5月の政変だ。
予期していなかった九鬼水軍は全く身動きも取れずに制圧され、上陸した連合軍は夕暮れ前には名古屋城を取り囲んだ。
事態が呑み込めなかった織田信吉は、何のセレモニーだろううと危機感なく羽柴秀堅、織田信純、伊達政治の入城を受け入れてしまった。
まさか、自分がそこから断罪されるなんて思ってもみなかったらしいな。
連合軍によって拘束された信吉は、名古屋城の庭へと座らされ、延々国際情勢やイギリス外交、アメリカの野望をガン詰めされる。
異変に気付いて駆けつけた丹羽長久や柴田勝興も連座してガン詰めされる羽目になったんだ。
こうして5月5日、尾張織田家による織田政権は幕を降ろし、羽柴、南方織田、伊達による合議制による新体制がスタートする事になった。
10日後にはその報を聞いた徳川幕府が抗議を行うが、水軍力が弱い事で日高見を出る事すら叶わず、新体制の軍門に降る事になった。
徳川幕府は幸運だったかも知れんな。
伊達は三丹奥地、寒凍で徳川がロシアと対峙しているのを知っていたし、羽柴や南方織田もその重要性を理解していた。
そんな日本国内の事情を知らないイギリスは、織田政権がホイホイ金で領土を売る連中と理解し、1851年2月、常春諸島売却を持ちかけて来た。
新体制がそんなモノを吞むはずはなく、当然のように拒否した。
すると、新たに得た上海租借地にあった艦隊を日本へと向かわせる。
当時、敵う者がいないと思われたイギリスアジア艦隊10隻による脅迫だったが、まるで相手にしなかった。
そりゃあそうだ。スチーム伊賀七が開発した蒸気機関はイギリスとそん色ないものに発展していたし、なによりリボルバー通賢はライフル銃だけに飽き足らず、リボルバー砲まで作っていた。
遺作となった炸裂弾用信管も、この頃には国友が実用化し、鎮南水軍に配備が進められていたんだ。
8月15日、伊勢湾に至ったイギリス艦隊は最後通牒を突き付けたが、返事は宣戦布告だった。
イギリスとしたら喜々として戦端を開いた事だろう。まさか、3隻沈められ、上海に無傷で帰り着く船が一隻も居ないとは思いもせずに・・・
結果はイギリスの惨敗。相手も場所も悪かったんだな。
それでも景気のいいことを言い続けるイギリスに対し、舟山群島返還を条件に艦隊を出したら大人しくなった。
結局、売却話は白紙となり、イギリスはただ艦隊が損害を被っただけで、何も得ることなく引き下がっていった。
新体制は直接イギリスには何もしなかったが、しっかり裏でスペインへの毛糸優先販売を決めていたから、イギリスへの損害は大きかった事だろう。
おお、時間じゃないか。
投稿日調整をミスりました。
以後、隔日更新になります。




