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16時限目・尊王攘夷運動

 ほいほい、授業の時間だぞー


 前回は日英戦争だったな。


 5月の政変の後、日英戦争までの間にあった事に触れておこう。

 これがかなり重要というか、日本と世界のズレがあった話なんだ。


 この前話したレナ川を境にした国境策定のはなしな、実はアレ、日露でまったく解釈が違うんだ。


 まずロシアの見解は、ヤクーツクから北へ流れる川筋が国境であるとしていた。


 南に関しては、東へ流れて来た川筋を東へ伸ばした線まではロシア領との解釈だった。


 おかしいって?


 確かにそうだな。そんな事をすれば寒凍(シベリア)のド真ん中がロシア領って話になる。

 東とは、つまり北氷海(オホーツク)までだ。


 じゃあ南は?


 これは、寒凍中央(スタノヴォイ)山地までだ。


 今でもロシアが時々言っているシベリア回廊ってヤツだな。


 じゃあなんで寒凍中央山地までなのか?


 実は、1689年、清はロシアとの間で寒凍における国境策定を定めたネルチンスク条約を結んでいた。


 だからこそ、ロシアは日本人を辺境部族と見なしていたんだ。


 では、その頃の寒凍は清の領土だったのか?


 実は、すでに泥色川(アムール)の下流北方、中流東方は徳川幕府の管轄とされていた。


 そうだな。


 現代の感覚で言えば、他国の領土を自国と偽り勝手に国境を決めた事になる。


 だが、そこには中華思想という別の壁が存在したんだ。


 徳川幕府は織田政権から一定の外交権が与えられていた。


 それによって清との交渉を行ったのだが、これは清がロシアと行った二国間交渉とは違う。


 何を言っているんだって?


 中華思想における「国」とは、清だけなんだ。


 日本は清の臣下でしかなく、清と徳川幕府の交渉は、大名と家臣による自領内の線引でしかなかったんだ。


 1630年頃の日本では、清に対してその様な対応を行う事が普通だったからな。


 こうして、清はあくまで徳川という家臣の土地に関する国境策定をロシアと行った。という認識だった。

 もちろん、主君がやる事をワザワザ家臣に相談する必要なんか無い時代だ。

 しかも、寒凍や三丹に居た清の役人からすれば、意識としては自分が上だが、武力に勝る武士たちに対して国境策定の事実を伝える事は憚られた。

 武士たちの武力は脅威だからな。


 かと言って、ロシアに対して「実はココ、うちの土地じゃないんですよ」なんて言えなかった。

 それでは清という大国のプライドが傷つくし、事実はどうあれ、清国役人にとって徳川幕府はあくまで家臣でしかなかったからだ。


 中華思想を理解しなければ、酷い話だと怒る場目なんだが、1594年以降、明や清との付き合いを続けてきた羽柴家は、対清交渉として非難出来ない事だと考えた。


 さらにもう一つ、レナ川国境を定めた時に、なぜロシアはその南部について記述する事を避けたのか?


 もちろん、ネルチンスク条約があったからだ。


 地図を見てみろ。ヤクーツクから真っ直ぐ南へ線を引けば寒凍中央山地の西、黒河辺りに来るだろう?つまりネルチンスク条約の線にぶつかる。


 せっかくネルチンスク条約を知らない相手に対し、ワザワザ自国領土を削ってしまう話をする訳がないじゃないか。


 これが、日本が世界から切離されていた時代に起きた出来事だ。


 5月の政変後、この惨状を知った三家は頭を抱える事になる。


 まず、清との対等な条約が必要だった。泥色川から寒凍中央山地までが日本領だとハッキリさせなければ、ロシアと話すら出来ないからな。


 この交渉は難航する。


 そりゃそうだ。清にとっては子分でしかない日本と対等な条約なんか結べるはずが無いんだから。


 そんな最中に起きたのが、日英戦争だった。


 イギリス艦隊は上海へ戻って行ったから、日本がイギリスと互角に戦える力があると知らしめる事が出来たんだ。


 日本の交渉団は清に対し、日英戦争における戦況を伝えた。

 清は上海に帰還したイギリス艦隊がどんな状態かを確認に行かせ、日本側の発言が事実かどうかを確かめさせた。


 清側交渉団は上海からの報告を受け態度を一変させ、日本の言う通りに「1630年に定めた通り、黒竜江以東、及び東進部の以北は日本領であった」と認め、ロシアに対してネルチンスク条約は間違いだったと伝えさせた。


 もちろん、ロシアがそんな事を認める訳は無いが、日本側としてはようやくスタートラインに立つに至れたんだな。 


 しかし、清との交渉が終わったからロシアと交渉しますってなったかと言うと、そうはいかなかった。


 日本列島内に新たな問題が起きていたんだ。


 日本が海の外から侵略されたと叫ぶ人々が現れたんだ。


 攘夷運動だな。


 日本は17世紀から沢山の移民が外へ向かったが、それに反対する人々が居た。


 食っていけないのだから、生きるためには外へ向かうしかないのに、彼らはそれを批判したんだ。


 静かに拡がったこの考えを国学派と呼ぶ。


 彼らは武士の時代に大陸から入って来た儒学を学び、武士のあり方はかくあるべしと説いていた。


 だが、それが5月の政変によって大きく変質してゆく。


 彼らは武士として忠誠を尽くす相手は尾張織田家であり、それを外から打倒した羽柴家や南方織田家、伊達家は夷狄だと叫んだんだ。


 さらに、尾張織田家が自分たちの忠誠に応えて立ち上がらないのはもはや徳を失ったからだ。と、話が僅かな時間で変節してゆく。

 それも仕方がない。


 当時の日本は彼ら懐古趣味者に構ってなど居られなかったんだから。


 5月の政変は、織田政権が安易にイギリスやアメリカの領土売却要求を呑んだ事に原因があった。

 世界情勢に明るい羽柴家や南方織田家から見れば、さらなる要求がなされ、それがほかの国にまで波及すると考え、イギリス、アメリカに対抗する準備に忙しかった。


 だが、列島で長閑の刻を過ごして来た国学派にはそれが理解出来なかったんだな。

 そして、日英戦争を目の当たりにして拗らせちゃうんだ。


「次はあの武力が俺たちに向かう!」


 ってな。


 どこにも脅威は無いのに敵の影に怯え、縋る先を考え出したんだ。


 そう、尊王攘夷運動となったんだ。


 尊王とは、京の天皇こそが日本を救う救世主って考えだ。


 天皇を担ぎ出して羽柴家や南方織田家、伊達家に対抗するってんだな。


 その中心となったのは、若い武士たちだった。彼らの事を攘夷志士と呼ぶ。


 とくに毛利、長宗我部、島津といった惣配置令で転封されず、高山国(台湾)出兵や援明などでも転封や廃領とならなかった大名家の下級武士が主となっていた。


 彼らは産業革命から取り残され、或は自身の思想から受け入れる事を拒否した者たちだった。


 そんな、現世に不満を抱きその救いを国学に求めた者たちだ。


 彼らの思想的支柱となった攘夷志士、吉田松陰は王政復古を唱え京へ入った。


 それに続く様に支持する攘夷志士が京へ集まって行ったんだ。


 毛利家などはその流れに身を任せた。


 だが、京の朝廷や寺社は国学派の主張を頑として受け入れなかった。


 それは、信忠が始めた天皇を政治から排除し神事に専念させる天皇宗教権威化政策が、もはや不可逆的なところまで完成していたからだった。


 天皇を戴く南蛮寺や回教寺はもちろんのこと、皇族を戴く神社や仏教諸宗派は「王政復古は天子を現し世の穢れに触れさせる愚挙である!」と国学派を批判した。


 これに怒った国学派は1852年、京で騒乱を起す。


 いわゆる禁裏事変と呼ばれる内乱だ。


 京は今でも宗教都市だが、皇居を中心とした各宗派の本山寺社が立ち並ぶ一帯を禁裏と呼ぶんだ。攘夷志士はそこで騒動を起こし、あわよくば天皇を自分たちで拉致して利用しようと考えたんだな。


 この騒動はその後、京に留まらず日本各地に飛び火し、1年近く混乱収束に時間を要する事になった。


 本当に迷惑千万で罰当たりな話だ。


 この事件で、事変の首謀者吉田松陰ら京で騒乱を起こした者たちが捕らえられて死罪となったのは、当時の状況から当然の流れだった。



 おっと、もう時間か。続きは次回だな。

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― 新着の感想 ―
まあリアル歴史でも吉田松陰さんはごく普通にテロリストだし多少はね・・・?(震え声)
松田松陰さん思想家からテロリストにジョブチェン!
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