17時限目・日露戦争
おー、授業の時間だぞー
さて、前回は尊王攘夷運動の話だったな。
禁裏事変を収拾した新体制だったが、発端となった毛利家では、領内で未だに攘夷運動が盛んに続けられていたんだ。
さらに、土佐や薩摩にもその運動が広がっていた。
これを重く見た新体制は、古の惣配置令をもって毛利家、長曾我部家、島津家を徳川幕府の元へ転封する事としたんだ。
転封先とされた徳川幕府も扱いに困った。
今更北海道に受け入れ余地などほとんど残されていなかったからな。
そこで、泥色川流域への入植を行う事になった。
今でも語り継がれる苦難の開拓悲話がたくさん残されているが、三家が騒動を抑えられなかったことによる流刑だったんだな。
そして、もう一つの理由が、兵員の確保だった。
日本はなんとか内乱を収拾したのでロシアとの交渉に臨もうとした。
だが、その頃にはクリミア戦争が始まっていたんだ。
弱みに付け込むなら今だと考えた日本だったが、呂宋の時のスペインのように事は上手く運ばなかった。
日本が考えていたのは戦争中のロシアに対し、いくらかの物資援助や東方での不可侵などを条件に、レナ川条約を改定し、ヤクーツクから南へと国境線を再確定するという内容だった。
だが、ロシアはその条件での妥結を拒否してきた。
ロシア側からすれば当然の話だっただろうな。
遠く東方での条約改定とは言え、もしそれに合意してしまえば、クリミア戦争の大義すら失いかねなかった。
日本との国境線策定を呑んでしまえば、クリミアを支配下に置こうとするロシアの行動が否定される恐れがある。そう考えるのも仕方のない事だった。
そして、イギリスやフランスがそこへやって来て、日本に声を掛ける。
「我々は日本が分捕った領土は承認するから、我々と契約して参戦国になってよ」
有利に交渉を進めるには、それが一番の近道であることは疑いなかった。
それに転封したとはいえ、攘夷志士を放っておけばまた何をやり出すか分からないので、出来るだけ使い潰せるならその方が望ましかったんだな。
徳川幕府も自分たちの失点回復に、対露開戦は是非ともやりたい事だった。幕府こそが望んでいたと言っても良いかもしれない。
こうして、日本は歴史上初となる宣戦布告による対外戦争を行う事になったんだ。
これまで幕府幕府と言ってきたが、幕府って何かわかるか?
鎮守府将軍は?
おー
残念。
実は逆なんだ。というか、説明したよな?
征夷大将軍とは、蝦夷を討伐、征服する軍勢の指揮官の事だ。
鎮守府将軍と言うのは、征服した土地を平穏に統治するための統治業務を行う組織の長だ。
高山国鎮守府、南方鎮守府、北方鎮守府の三つは、征服した土地を統治する組織として生まれたのだが、結局はそこがさらに外へと拡大してしまった事で、征夷大将軍のやることが無くなっていたんだな。
日露戦争まで150年間、幕府はロシアと対峙していたから、しっかりその任を果たしていたと言えるんだが、華々しく活躍していたのは三鎮守府だから、目立っていなかったんだ。本当だぞ?
こうして、北方に転封された三家はその軍勢を再編し、久米銃を有する世界最先端の軍勢へと変貌し、幕府指揮の下で泥色川を遡上していった。
従来、幕府は川運を黒河までしか行っていなかった。なにせ、冬には凍り付く様な川だ。常に川運が使える訳じゃないという事で、川岸に町を築いたりはしていなかったんだ。
それが、ロシアとの間に認識の齟齬を産んだのは間違いない。
そんなこれまでの幕府の失点を取り返そうと計画されたのが、西寒凍攻略だった。
この辺りには多くのロシア人が居住し、さらに東へと活動を行っている事は幕府も把握していた。
そもそもがアイヌをはじめとする先住民と本多衆、水野衆という少数が時折巡回するだけだったので、幕府としてはレナ川の国境線を南へ引いた黒河辺りで決着をつけるという考えを支持していたのだが、三家の転封を受け、本格的に流域沿岸に町の建設を考えるにあたり、一度西寒凍のロシア人たちを攻めておくべきだと考えたんだ。
そんな作戦計画の元、1854年1月、ロシアへと宣戦布告が行われた。
と言ってもすぐに攻撃が行えた訳ではない。目的地へ行くまでも遠く、ヤクーツクへの攻撃が始まったのは6月になってからの事だった。
常に警戒が続くヤクーツクでの戦いは、それは呆気ないものだった。
当時はまだ連発銃はおろか元込め銃すら本格的に普及していない時代だ。鉄砲を撃つには立って銃口から弾や火薬を詰めるのが普通の時代、水野衆は久米銃による連続射撃や伏せ撃ちと言った時代を10年以上先取りする戦い方を行っていた。
そして、國崩しを改良した暫定的な元込め野砲も投入していた。
これまでの水野衆は威嚇程度の襲撃に留まっていたことから、まさかこれほどの能力を持っているとは考えていなかったロシア側の防御は脆く、僅か一日の戦闘でヤクーツクの砦は降伏している。
そして、転封された三家と本多衆は泥色川を遡上し、各地に建設されていたロシア人の村や町を次々と占領していき、7月には目標の一つであったネルチンスクへと至り、これもあっけなく占領してしまった。
そのまま西進を続け、8月にはヴェルフネオジンスクをも攻略してしまった。
それは本多衆のイカレ具合が成し遂げた戦果だったが、三家連合軍は全くついて行けず、その大半が各地で置き去りにされてしまった。
その三家の部隊では、島津隊は若年の大久保利通や西郷隆盛が懸命に士気を保ち、長曾我部隊も武市半平太が、毛利隊に至っては年少の入江九一や高杉晋作が奮闘していたと伝わっている。
もう少し尊王攘夷運動が遅かったなら、彼らが運動に身を投じ、もっと厄介な事態になっていただろうなんて言われているほどの優秀な者たちだったんだ。
大久保利通や武市半平太は後に政治家として、西郷隆盛は陸軍軍人として有名だな。残念ながら、高杉晋作は病気で、入江九一はこの後コサックとの戦闘で亡くなったので、果たしてどうだったのかは伝聞でしか分からんが。
本多衆が先行し、それを追うように進んでいた三家連合軍は、コサックの襲撃を受けてしまったんだ。ヴェルフネオジンスクの50km手前付近と言われている。
この戦闘で自ら先陣を切った入江が戦死し、その後の毛利隊は高杉が支えていたという。
1854年から翌年の越冬をバイカル湖畔で行った部隊は、凍死者を出しながらも何とか生き延び、冬の間もコサックと戦い続けていたんだ。
初夏になってようやく水野衆と合流した時には、食料も弾もほぼ底をつきかけていたっていうんだから、相当な状態だったんだろうな。
1855年7月、バイカル湖以東はこうして日本の占領下におかれることになったんだ。
この戦果によって、ロシアは日本との講和に動くことになった。
このまま放っておけばさらに西進されると恐れたんだな。
こうして、クリミア戦争が終結へと向かう中で、日露間でも講和に向けた話し合いが行われることになった。
合意の殆んどは日露弐国間での話し合いで決められていったが、最終的にはクリミア戦争の終結を決めたパリ条約としてまとめられた。
パリ条約では、日本が当初から求めていた様にレナ川国境条約が南方へと国境線を延長するように改められ、ネルチンスク条約の無効化が確認されることになった。
そう、完全に日本側の要求をロシアが呑む形での決着となったんだ。
クリミア戦争は、ざっくり言えばオスマン帝国と言う有色人種とロシア帝国と言う白人との戦争だった。
ここで、西方においては白人が勝利をおさめたが、東方では日本人と言う有色人種が勝利しているんだ。
名が売れたことは良かったが、これで日本が警戒される事へと繋がっていく。
さて、時間だな。




