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18時限目・東南アジア情勢

 はーい、授業の時間だー


 さて、前回は日露戦争についてだったな。


 19世紀半ばから20世紀を迎える前後と言うのはとにかく出来事が多い。それまで日本が如何に世界から切り離されていたかを思い知らされるほど目まぐるしい事件や戦争の連続になっていくんだ。


 それは何故か?


 ヨーロッパで大規模な戦争が終わって個々に国の形が整い出していたからなんだ。そうして余裕が出来た国々が、大西洋へ漕ぎだし、太平洋へとやって来ていた。


 ちょっと地図を見てくれ、東天竺(ポリネシア)熱雨諸島(ソロモン)から東にも島があるだろう?


 そこは何処の国だ?


 そう、フランスだな。


 南大孤島(オーストラリア)常春諸島(ニュージーランド)にも、イギリス船がやって来ていたという話はしただろう?


 それが18世紀後半の話だ。


 そして、19世紀に入ると本格的にフランスやイギリスがアジアへやって来たんだ。


 インドも当初はオランダが植民地を有していたが、1780年に勃発した第四次英蘭戦争以降、オランダが衰退し、イギリスが代わって支配するようになっていた。


 そう、だからこそ、さらに東へと再進出してきたイギリスが、清と戦争する事になった訳だ。


 そして、そのイギリスやフランスの太平洋・アジア進出が本格的に始まったいたんだ。


 1858年にはフランスがインドシナへと入って来る事になる。


 そして、今日の本題であるボルネオ島では、ブルネイ帝国から反乱鎮圧を依頼されたイギリス人が鎮圧の功から藩王として領地を貰い、建国したんだ。

 サラワク王国と言う。


 ブルネイには牢人も多数いた。当然だな。なにせブルネイは回教寺派なんだから。


 牢人は、戦国時代が終わるとともに東南アジアへと渡り日本人町を警護していた武士たちの末裔だ。現地人と結婚したものも多く、牢人だから日本人かと言うと、そうとも言えなかったが、それでも回教寺派や南蛮寺派の者たちが多く、日本への帰属意識を何某か持つ者たちだったんだ。


 そうだな、客家をはじめとする華僑に対し、日僑という場合もある。そう言う人たちが組織した傭兵だ。


 サラワク王国は1841年の建国からブルネイと戦争をはじめ、ボルネオ島中部西方を支配していた。


 その南部には、客家を主とする蘭芳公司(らんほうこんす)という国もあった。


 この国は、東莞がある広東からやって来た客家がリーダーとなって、1777年に建国されている。    

 当然だが、鄭氏と交易を行っており日本とも無関係という訳ではない国だった。

 その国の北部で騒乱が起きているという事でもあった訳だ。


 だが、羽柴家や鎮南将軍が直接乗り出すことはなかった。


 時々居るんだ。攘夷保守と言うグループが主なんだが、この頃西欧の侵略を受けるアジアを日本は開放すべきだったってな。


 地図すら見た事が無いんだろうな、そういう連中は。


 歴史を見ればわかるが、当時の日本は東からはアメリカに狙われ、アジアではイギリス、フランス、オランダと対峙し、寒凍(シベリア)にはロシアが居た。


 どうすんだ?すべてと戦うのか?


 そんな事をすれば、さしもの鎮南水軍、鎮北水軍、徳川幕府をもってしても、日本が植民地にされていただろう。


 寒凍や北氷道、北海道はロシアに奪われ、日本列島や高山国(台湾)はイギリス、フランスが山分けし、呂宋にはスペインが戻り、南洋やハワイ、阿羅斯加(アラスカ)にはアメリカやフランスが入って来たんじゃないのか?


 そう言う事が分からない夢想家が叫んでる寝言なんだ、アレは。


 そう言う寝言を叫んで京を荒らしたのが誰だったかを考えれば、わかる話だろう?


 まあ、そう言う事だ。


 さて、話を戻そうか。


 そんな訳で、仮に羽柴家や鎮南将軍が介入すればイギリスが出てきて戦争になっただろう。


 それが分かっていたから、双方が地元の紛争として遠巻きにしていたんだ。


 もちろん、牢人たちの武器は高山国や日本列島で造られた武器が渡っていたし、サラワク王国の後ろにはイギリスが居た。そんな事は分かり切った話じゃないか。


 さらに、その頃の清は大いに荒れていた。


 太平天国の乱だ。


 1851年に、これまた客家の洪秀全が太平天国を建国して福建周辺で勢力拡大を行っていたんだ。もちろん、急速な勢力拡大の裏には鄭氏が居たって言われているがな。


 だが、鄭氏は彼らを全面支援した訳ではなかった。


 広東に彼らが勢力を持つことは排除していたし、日本やヨーロッパの最新鋭の武器を渡すようなこともしなかった。あくまで、清朝の衰退が狙いだったんだ。


 さらに、クリミア戦争を終えた英仏が、上海で起きた清官憲による英船籍アロー号の船員拘束を口実にして戦争を起こしていた。アロー号事件とアロー戦争だ。


 1856年に起きたアロー号事件をきっかけに、長江沿岸の清国の砲台を破壊、占領し、さらに本国から部隊を送ってまたぞろ北京まで進軍したんだ。

 

 こうした事が連続して起きているさなかだったから、ボルネオ島の問題解決が急がれた。


 放置すればサラワク王国だけでなく、イギリスが参戦して来るかも知れなかったからだ。


 そこで、イギリス、オランダと交渉を持ち、サラワク王国の領土確定を三者で協議した。


 まあ、日本も清の事が言えなくなったんだが、ブルネイを守るためにはそれが最善だと判断したんだな。

 こうして、1858年にサラワク条約が結ばれ、サラワク王国の領土が確定した。


 もちろんサラワク王国は反発したんだが、イギリスの意向だからどうしようもないよな。


 それと共に、この時オランダとの間にボルネオ島に関する取り決めがなされ、伊豆ジャワ航路時代から日本人町が築かれていたバクリパパン周辺を日本が領有する事も取り決められたんだ。

 形式的には、スールー王国の領土をボルネオ島北部から東岸にかけての領域と定められている。これが、現在の国境線を決める条約になったんだ。

 そして、条約には鄭氏の影響下にある蘭芳公司の保護も含まれていて、サラワク王国やイギリスが時折ボルネオ島北部を狙おうとしたが、日本とオランダがそれを阻止するという関係が続くことになった。

 オランダとしても、東莞貿易の優先取引権が掛かっているから率先して協力していた様だな。


 こうして、日本がボルネオ島の安全に腐心している時に、この問題に関われなかったアメリカが抗議してきた。

 彼らもブルネイと通商条約を結んでおり、サラワク王国の支援者であったが、日本がブルネイ側に立ってイギリスと交渉した事ではしごを外されてしまっていた。

 正直、知らんがなって話なんだが、彼らとしては腹に据えかねたらしい。と言ってもこの時には領事館を焼いて騒ぐ以外何も出来なかったんだが、これが後に尾を引くことになったんだな。


 おっと、時間だ。

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