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8時限目・南洋冒険と天国の島

 さあて、授業の時間だー


 前回は鄭成功と北米についてだった。


 今回は、南洋、そして南大孤島(オーストラリア)についてだな。


 前回も言ったが、北の浦(シアトル)南の浦(サンフランシスコ)に積極的に入植していれば、今でも日本の領土だったかも知れない。


 だが、そうならなかった訳だな。


 理由は、北の浦(シアトル)周辺の気候は良くて東北、だいたい日高見(北海道)南部に近い気候だった事が挙げられる。

 米が作れなかったんだな。


 そして、南の浦(サンフランシスコ)やその内陸部は、気温はよかったが、雨が降るのが冬だった。

 気候的に麦類の栽培には適していたが、米を作るには、水が不足していた。


 水問題は後に大規模用水が引かれて今や稲作も行われているが、あくまで日本が手放した後の話だからな。


 それに対して南大孤島(オーストラリア)東海岸は、まさしく日本の求めていた条件が揃う地だったんだ。


 と言っても、そこへ入植が始まるまでには時間が必要だった。


 なにせ、南大孤島まで脚を伸ばした人物が、あの織田信晴だったからだ。


 彼は現地人英保里(アボリジニ)と仲良く酒を酌み交わし、楽しく踊る事には長けていたが、如何せん、日本の入植先について考える様な人物ではなかった。


 彼は奥南洋(ミクロネシア)からさらに東進し、東天竺(ポリネシア)へと至り、そこから南下し、天国島(ニューカレドニア)へ至り、南大孤島(オーストラリア)へ到達した訳だ。

 さらに東へ探索を進めて常春諸島(ニュージーランド)も発見している。


 各地で王や酋長となる大活躍をしたが、とくに何かそれ以上の政策を行った訳では無いんだな。


 今の信晴伝説は、全てそうした冒険譚から出来上がっている。

 功績じゃないとは言わないが、それが日本に利益となったかは、怪しい。

 

 唯一、奥南洋や東天竺へ九鬼船の技術を伝え、彼らが操るカヤックが航洋船に進化したくらいだな。


 それがあった事で、1646年に信晴が亡くなると、交易船や徴税官によって訃報を知らされた各地の長たちが日本へ弔問にやって来る事が出来たんだが。


 この弔問は1648年前後にピークを迎え、南天国島(ニューカレドニア)常春諸島(ニュージーランド)南大孤島(オーストラリア)各地から次々訪れる人々に小笠原や伊豆の役人たちが大わらわとなった。


 ただ、信晴が単に遊び呆けていた訳ではない事が確認され、正式に鎮南将軍家の配下へと組み入れられていった。


 当時は常春も小島くらいに認識されていたからな。

 南大孤島でようやく日高見(北海道)や樺太くらいの認識だったらしい。

 ただ、そこで稲作が可能な事で高山国(台湾)に次ぐ重要な島との認識が広がり、信晴の四男と言われる信春(のぶはる)が武田を再興し、南大孤島へと入植する。


 付き従うのは、旧武田家に仕えた甲斐、信濃の者たちだった。


 信春は四男とは言うが1620年生まれで、母親は奥南洋の長の娘と伝わっている。

 信晴が認知し、元服のために尾張へ長男信興(のぶおき)が連れてきた時には、織田家の皆が驚いたと言われている。


 そんな信春ならばと、当時南洋の地理などまるで分からない信嗣が武田再興と南洋少将の地位を与え、鎮南将軍の下で南大孤島への入植を任せる事にした訳だ。


 信春は奥南洋の人間で、南大孤島には縁もゆかりもない人物だったが、信晴のカリスマによって感化されていた英保里の人々は快く受け入れ、現在の常夏町(ケアンズ)へと上陸した。


 そこから英保里の人々の情報をもとに海岸線を南へと探索し、先の浦(ブリスベン)大江戸(シドニー)などを調査し、米の栽培が可能な気象であることを確認した。


 信春自身は南洋の人なのであまり気にしていなかったが、日本から付き従った人々は日本からの航海日数から計算してあまりに季節が違い過ぎることに驚くことになった。

 それがさらに南下して逆季浦(メルボルン)に達した時には確信に変わった。地名として逆季浦(さかきうら)と命名したのは、その驚きからだったと言われている。


 今は日本や高山(台湾)の米と南大米(オージー)は入荷時期が異なるが、当時は帆船ではるばる送る関係から、ほぼ同じ時期に日本へと届いたらしい。

 それが案外、季節が逆転している事に気付かなかった原因であるらしいが、いや、何ヶ月も航海して届いたんだから気づけよって思うがなぁ


 そんな信春に付き従って南大孤島(オーストラリア)に渡った人物に、真田昌繁(まさしげ)と言う人物が居る。

 ああ、真田は有名だな。かの名将武田信玄に仕えた真田昌幸だ。


 確かにその真田で合っているのだが、信濃真田家の人物じゃない。信濃真田家は長男信之の系譜だ。


 昌繁は次男の系譜になる。


 次男と言えば、援明軍の武将真田幸村が有名だが、その弟になる。


 昌幸の次男信繁は信濃を飛び出し、羽柴家に付き従って高山へと渡っていた。その孫にあたるのが、幸村と昌繁だ。


 幸村は大陸での活躍が有名だな。残念ながら南昌防衛戦で討ち死にしてしまっているが。

 高山真田家は次男信幸が継ぎ、祖父譲りの放蕩者だった昌繁は北方を目指して尾張までやって来たところで信春の事を知り、信濃ゆかりの者として南大孤島へと渡った訳だ。


 この昌繁が信春と仲が良く、しかも信晴ばりにバイタリティに富む人物だった事は、幸いだっただろう。

 彼は海路ではなく陸路で南大孤島を西岸まで踏破している。途中、いくつもの英保里の部族と出会い親睦を深め、様々な技術も学ぶことになった。


 こうして、彼が縦横に南大孤島を探検した事が、後の資源調査に役立つこととなったのは有名な話だな。

 だだ、出だしこそ順調だった南大孤島への入植だったが、援明軍の編成で中断する事になる。


 本格的に南大孤島(オーストラリア)常春諸島(ニュージーランド)への入植がはじまるのは、昌繁が複数の英保里の娘を娶って各地に真田庄を築いた後の、1670年以降の事だった。

 南大孤島人が言葉や習俗がおおむね日本人なのに、日本人らしくないのは彼の様な現地人との混血を率先して行ったからと言うのは有名な話だな。


 さて、今回はここまで。

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