7時限目・鄭成功と援明軍の出兵
授業を始めるぞー
前回は余談で終わったので、サッと飛ばして1658年からだな。
日本は明との貿易で利益をあげていたのだが、1640年代にはその明が滅亡してしまった。
信忠は生前、明の戦況が危ぶまれる時期に、朝鮮出兵をしなかった事に心底安堵している。
さて、そんな信忠の安堵は孫信嗣には何の助けにもならず、頭を悩ませる問題としてのしかかって来た。
その問題と言うのが、高山鎮守府将軍秀貴からもたらされた援軍要請の陳情だった。
高山国は九州と並ぶ貿易拠点だったが、明滅亡の前後から様々な人々が大陸から押し寄せていた。
その中には鄭成功の父、鄭芝龍も居た訳だ。
鄭家は日明貿易で財を成し、スペイン、ポルトガルとも交易していた。
彼は高山北部に半ば定住し、当地の代官松浦氏の庇護を受け、家臣田川七左衛門の娘を娶っている。
そして生まれたのが鄭成功、日本名を田川福松と言う。
彼は父と共に1644年に隆武帝を建て明再興を図るのだが失敗。
父はその時点で明再興を諦め清に降る。
だが成功は諦めずに抵抗運動に加わり、10年以上各地を転戦していた。
そして1658年、北伐軍、つまり清を倒す軍勢を起すから協力してほしいと松浦氏へ相談を持ち込んで来たんだ。
だが、一介の代官でしかない松浦氏では、集められる人数にも限りがあるし、何より武具を集めたら謀反を疑われかねない。
そこで、鎮守府へと成功の申し出を回したわけだ。
当時の高山は入植も進み、高砂も恭順を示す者が多くなっていたので開墾はかなり進めることが出来ていた。
人口爆発一歩手前だな。
ただ、やはり羽柴家は織田直系とは言え、家としては家臣に過ぎない事から外征となりかねない成功への協力は判断しかねた。秀貴は凡庸ではなかったが、秀則から続く慎重さを持っていた。
暴れるのは、信晴の家だけで十分って考えだったんだろうな。
そして、たらい回しでとうとう信嗣にまで話が回ってくる。
信嗣は当時、平和になり、さらに馬鈴薯や甘薯の普及、米と他の作物の二毛作の普及などによる人口爆発に悩んでいた。
北方探検へと東北の大名たちを送り出し、高山平定に西国大名を送り、国内から浪人を減らしたはずなのに、気が付けば人が増えすぎていた。
北海道や高山へ送り出すにも限りがあるし口実が必要になる。
そんな時に舞い込んだ成功の陳情は、渡りに船と飛び付いた訳だ。
国内に残る無駄な武具と増えすぎた人口を外へ放り出せると、なんと10万の大軍を工面した。
この援明軍が高山へ渡るのは1659年。
痺れを切らした鄭成功はすでに大陸へと渡っていたが、嵐で船が多数遭難して軍勢も減少していた。
そこへ日本からの援軍10万が到着したのだから、小躍りしない筈はなく、軍は順調に進軍して南京を陥落させる。
こうして南明は命脈を保つ事に成功し、鄭成功も南明の重臣としてさらに清と戦いを続ける。
こうして、信嗣は最終的に30万人を大陸へ送り込んだんだ。
だが、それでも清にはまったく敵わなかった。
鄭成功も日本の支援を得て沿岸部での戦いを続けたが、自身がハーフである事も含め、大陸では日本の手先として警戒される様になっていった。
結局、鄭成功は1670年頃には東莞に自身の領地を築き、そこに籠る様になり、南明は領土を失い、山中へ逃げた皇帝が1682年に降伏した事で消滅してしまった。
鄭成功だけは日本の支援もあって東莞を守り続けたが、成功の没後に清へ服属し、鄭領という自治区として海禁政策をとる清には珍しい貿易港として栄える事になる。
援明軍も大半は大陸各地で散り、残された一部は沿岸部から島へと渡り、舟山群島や金門島の様に日本領へ組み込まれていった。
こうして失敗に終わった援明出兵だったが、日本にとって利益も齎している。
清が海禁政策をとる事で入手が難しくなる磁器製法や養蚕の技術は援明軍や鄭成功によって日本へ伝えられ、大陸に頼らず産業振興が行える様になった。
さらに骸炭技術も齎され、ヨーロッパでコークスが発明されるのと時を同じくして利用される様になっていった。
織田政権は出兵に費用を拠出しているが、それは阿羅斯加において発見された砂金によって回収する事が出来ていた。
何より、出兵させたのはある意味棄民であったので、多額の費用を出した訳ではなく、志願者たちの手弁当な部分も多かった。
後に、織田政権内において援明出兵の失敗原因が検証された際に出された結論も、武具の統一を欠き、支援も商人任せにしたからだとされている。
これが後に、各将軍任せの軍勢運用から国軍創設へと繋がるのだが、その必要性はもうしばらく待たなければならない。
なにせ、清が海禁政策をとった事で日本への脅威にはならなかったのだから、当然だろう。
さて、サラッと出て来た阿羅斯加だが、鎮北将軍伊達家の探索はさらに南下し、1660年頃には北の浦やアカプルコ航路の北側到達地であるメンドシノ岬付近へと到達し、南の浦へと到達している。
そこからさらに南下するとスペイン人が居住するサンディエゴへと至り、ようやく探検を終えるのだった。
こうして、伊達家による太平洋沿岸探検は終わりを迎え訳だが、その報告を受けた尾張の信嗣は、早速マニラ総督府と交渉を持ち、北の浦や南の浦の領有を認めさせている。
そして、それはアカプルコ貿易の管理を行う信晴の息子晴興へと伝えられ、伊豆から北の浦や南の浦を目指す航路の開拓が行われることとなった。
こうしてアカプルコ航路より北へと進路をとり、伊豆から北の浦、南の浦へと至るルートの安全性が検証され、1680年頃にはほぼ確立されることとなった。
こうして、鎮北将軍伊達家によって発見された新天地は日本へと組み込まれたものの、米を育てるには気候がまだ寒い北の浦、雨量に乏しい南の浦という事で入植はゆっくりとしたペースでしか進まなかった。
今から思えば、もっと積極的に入植していれば、今でも北米西海岸は阿羅斯加同様に日本だったかもしれんのだが、それを言っても仕方が無いんだろうな。
さて、今日はここまでだ。




