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5時限目・鎮南将軍の冒険

 さあ、授業はじめるぞー


 前回は宗教、武家に関する制度確立だったな。

 

 ちなみに、武家制度としては、北の幕府に対して高山国(台湾)へ羽柴家を配し、鎮守府を置いた。


 高山鎮守府が日本の南に対する窓口となる事を想定していた訳だ。


 羽柴秀則はあまり積極的に動く人物ではなかったため、南方へ出て行くのはもっぱら商人か国内が安定して仕官先を失った浪人であった。


 商人が東南アジア各地に日本人町を作り、海外雄飛を夢見た浪人が商人の警護や東南アジア諸国への仕官を目指している。


 中でも有名なのが、山田長政だろう。アユタヤで軍勢を率いる将軍にまでのぼりつめている。


 まあ、慌てるな。


 鎮南将軍信晴の話をこれから始めるぞ。


 織田信晴は有名すぎて授業で取り上げる必要があるのか疑問だが、彼の話をしないと授業にならないからな。


 が、その前に、弟信義について先に話そう。


 ふたりの母は言わずと知れた松姫だな。


 信忠と徳川家康が対立したのは、甲斐の領主を巡るものだったらしいとは以前説明したが、信晴を甲州守にしなくてよかったのは、歴史を見れば明らかだろう。


 信晴は外に出て行く事に憧れていた。  


 対して信義は大人しく、まさに治世の人だった。


 そんな信義を甲州守とした信忠の采配は称賛に値する。


 信義は甲州の産業としてブドウを積極的に取り入れ、ワインを特産へと育て上げた名君であった。


 甲州ワインと言えば、今ではヨーロッパでの評価も高いが、それを築いた人物だからな。


 さて、では信晴についてだ。


 大半は知っている話だが、信晴は正式な命を何も受ける事なく、伊豆諸島を中心に活動していた東海の水軍衆を束ねる様になる。


 祖父信長の様に毎日遊び歩いていたと言われ、そんな折に九鬼船を操る水軍衆と知り合ったのだろう。


 元服して程なく、水軍衆を率いて南方探索へと赴いている。1599年の事と言われているが、1598年から1605年まで、史料によって幅がある。


 この時はしばらく南下したが、無人島をいくつか発見したと報告を上げたのみであった。


 その無人島発見の報は、信忠から代替わりした信匡(のぶまさ)にも届けられたが、あまり重視されなかったと言われている。


 信匡が織田政権を継いだのが1605年の話なので、1605年に小笠原諸島を発見したと、先生の頃は習ったのだが、最近では新たに発見された記録や日記から、1599年頃には探索へ出掛けていたが、信忠に叱られ、しばらく海に出る事が許されなかったとも言われる様になっている。


 代替わりした事で、シレッと兄ならばと報告したんじゃないかって話だな。


 残念ながら、父同様に軽くスルーされたらしいな。


 そんな信晴が本格的に活動を始めたのは1608年からと言われている。


 先ずは先に発見した小笠原諸島への航路開拓から始め、初島、多分今の父島に拠点を設けている。


 その拡充や周辺の探索を入念に行い、初島(父島)尼島(母島)を中心とした入植を開始し、さらに南へと脚を伸ばしたのは1612年の事だった。


 信晴率いる船団は、そこで南洋諸島を発見した。


 ちょうど信晴たちが滞在中にスペイン船が立ち寄り、一触即発の事態となるが、言葉の分かる者が居た事から事なきを得たという。


 そこで、この島がサイパンと呼ばれる事をしり、以後、彩帆島の名が付けられる事となる。


 スペインからすれば既に領有宣言をしていたが、信晴は知るはずもなく、そこに住民が居るのだから彼らの国であるとして扱い、自らの所領に加えている。


 こうして、彩帆、雅夢(グァム)天仁庵(テニアン)を所領とした信晴は、まさかその後にそれが原因でスペインと戦争になるなど思っても見なかっただろうな。


 信晴は所領としたものの、とくに何かを要求するでも無く、年貢代わりの交易を行うに留まっていた。

 仮に甲州を拝領した場合、この様に放置した可能性があるんだ。信義が甲州に入ったからこそ発展したと言える。


 信晴はさらに南へと冒険を続け、ジャワへと至る。


 後の、伊豆ジャワ航路がここに発見された訳だ。


 信晴自身はまるで商売をする気もなく、ただ冒険を満喫していただけなのだが、伊豆ジャワ航路の開拓は彼に大きな富と地位を与える事になる。


 北方の伊達政宗がそうであった様に、好き勝手しているうちにそれが認められたパターンだな。


 伊達政宗が新たに設けられた北氷道において鎮守将軍に任じられたのが1622年の事。


 日高見(北海道)に幕府はあるが、さすがに北氷海(オホーツク)を越えた先まで差配するには遠すぎた。


 そのため、幕府より権限は小さいが独自裁量を認められた将軍職が新たに増やされる事になった訳だな。


 この後、北方探検は伊達鎮北将軍家が主として担う事になる。


 日高見に徳川を遠ざけ、さらに権限を削った訳だ。 


 その後を追うように、1626年には信晴が主張した南洋の所領が認められ、南方鎮守将軍に任じられた。


 こうして小笠原を拠点に南洋を探検して回る信晴であったが、1639年、彩帆(サイパン)で事件が起こる。


 彩帆島民がスペイン人宣教師を殺害したのだ。スペインは自分たちの領土で現地民が反乱を起こしたとして軍が派遣された。


 少し遅れてその報を受けた信晴は、自領へのスペイン軍の侵攻と解釈して軍勢を引き連れ出陣した。


 いわゆる南方戦争の始まりだ。


 彩帆での戦いは信晴の勝利に終わったが、事はそれだけでは終わらなかった。


 信晴は自領へ攻撃を仕掛けた先がマニラ総督府であると知ると、翌年にはマニラへと攻撃を掛ける。


 マニラには要塞の名を冠する砦が作られていたが、本国を遠く離れたマニラに大した兵力などなく、主力はそもそも信晴が戦い倒した後だったため、あっと言う間に占領する事に成功してしまう。


 事態がよく分かっていない織田政権は、スペインと交渉の席を設けたが、あまりにもスペイン側にとって時期が悪かった。


 ちょうどヨーロッパではオランダを巡る戦いの最中であり、スペインは前年に大敗を喫した直後だったんだ。


 東洋へ送る兵力も船もない。


 信匡はそれを把握しており、スペインへと圧力を掛け南洋諸島の日本領有を認めさせ、マニラも事実上奪い取る事になった。

 だが、禍根を残す事を嫌って南洋諸島領有には行き違いがあったとして、マニラ総督府の存続とアカプルコ航路によるガレオン貿易を継続する事は認めている。


 もはや日本のものと言って良くなったマニラは、名目上はスペインの支配下だったが高山鎮守府が事実上管理する事になり、ガレオン船を建造する造船所や船の運航に関しては、鎮南将軍の管理下に置かれた。


 こうしてアカプルコ航路による貿易を半ば手中に収めた信晴は、さらに探索の手を広げ、ハワイ諸島の発見や奥 南 洋(ミクロネシア)探索、さらにはアユタヤで聞いた南 大 孤 島(オーストラリア)にまで足跡を遺す偉業を果たす事になる訳だ。


 おっと、もう時間だな。


 

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― 新着の感想 ―
そういえば、結局信忠は将軍以外の関白や太政大臣の役職をもらっていないのですか、 織田政権では信忠は天下人で統一しているのですか?
今更ですが、信匡は三法師なんですね。織田秀信。 行けるとこまでいけそうですねw
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