4時限目・幕府制度の確立
ほらほら、授業の時間だぞー
さて、前回までは北方、南方への拡大について見てきたが、今日は信忠によって政権を確立した織田政権そのものについて、少し詳しく見ていこう。
織田政権は武士の時代に作られた鎌倉、室町という幕府の形態は採らなかった。
なぜかは以前も説明したな。
織田氏は平氏に連なる血筋だったため、武士の棟梁となる源氏の地位に就く事を選ばなかった。
仮に征夷大将軍になっても、徳川をはじめとする源氏が付いてきたかは分からない。
源氏と違う道を選んだ事は、歴史を見れば正解だったんだろうな。
その織田政権は何によって権威を得たか。
普通なら朝廷の役職を得て天下へ号令するのだろうが、信忠はそうしなかった。
これは父信長もそうだった訳だが、信忠は朝廷とは距離を置いて独自の権力確立を行った。
では、朝廷を廃したのかと言うと、そうではなかった。
ここも、信長と信忠では大きく考えが違っていたらしい。
信忠が本能寺騒動後、安土城天主を再建しなかったのも、信長が天皇と並ぶ権威を作り出そうとした事への反発だったなんて言われている。
だが、先生から見れば、信忠の方が悪辣に見えるがな。
知っての通り、神社の多くは宮内府の管轄だな。
そして、寺院の大半も、皇族が長を務めている。
さらに、キリスト教も国教会化して天皇を戴く形にしている。
神社は、もちろん天皇家の祖とされる天照大御神をはじめ、神々や後に神格化した人々を祀るのだから、天皇家が司るのは誰でも分かるだろう。
寺院はどうか?
客観的に見れば外来宗教なのだから、日本の神々とは別の存在となる。が、天皇家が神の子孫ならば、仏も天皇家ゆかりの存在、あるいは祖先ではないかと考えられた訳だな。
これを、神仏習合と言う。
まあ、わざわざ分けて考えるものじゃないのが今の日本だがな。
では、キリスト教は?
不思議に思うよな。
え?
まあ、そりゃゲームに出てくるから一応は知っているか。
だが、全員が知っている訳では無いからな。
事の起こりは1584年、羽柴秀吉による九州征伐まで遡る。
九州と言えば島津が有名だが、大友をはじめキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名という存在が居た。
秀吉は、九州征伐の過程で彼らが攻め込んだ先の領民を攫い、バテレンに売っている事を知り驚いたと言われている。
バテレンと言うのはカトリック派の神父の事だ。同じ役目だが、プロテスタントだと牧師になる。
宗派によって呼び名が変わるのは仏教でもそうだな。
そのバテレンによる人身売買に激怒した秀吉が、信忠に対してバテレン追放を求めた訳だ。
それだけ聞くと、まるで秀吉が正義の人に思えるが、実はそんな話ではなかった。
例えば、ゲームでは軍神と名高い上杉謙信だって、実は仁義の人ではなく人攫いを経済活動のひとつにしていた大名だったんだ。
そうだな。
秀吉は、さらにキリシタン大名がイエズス会を通じてイスパニアの為に動く事を恐れたとも言われている。
これも、無い話ではない。
かの戦国最強と名高い武田信玄は、一向宗の命令で信長と対峙していたなんて話もある。
実際、法主とは姻戚関係だった訳だしな。
秀吉からすれば、信玄や一向一揆と同じくキリシタン大名とキリシタン一揆が結びつく可能性を恐れたというのが、一番大きな懸念だったんだろう。
そんな秀吉に対し、信忠は話を先送りにした。
先ずは九州平定が先だと言った訳だ。
もちろん、信忠は無責任に先送りにした訳ではなかった。
京や尾張にも南蛮寺、つまりキリシタンはいた訳だ。
そして、当時日本へ来ていたスペイン、ポルトガル、オランダ、イングランドなどの人々からキリスト教に関する知識を得、様々な検討をしている。
これは、のちに嫡男信匡がキリスト教の洗礼を受けペトロの名を授かった事にもつながる。
最終的に、キリスト教南蛮寺派としてカトリックやプロテスタントとは違う宗派となり、天皇を戴く国教会となるのだが、それは信匡の子、信嗣の頃になってからの話だ。
こうして、数十年かけてキリスト教を日本化していき、神仏習合の中へと取り込みを完成させていった訳だな。今の日本の形は、信忠が描いたと言って良いだろう。
こうして、朝廷を祭祀官へと徐々に変貌させ、天皇家を宗教を司る存在とすることで、実務から遠ざけ、貴族の役職も祭祀に限るものへと変質させていった。
秀吉が訴えた様にバテレンを追放するのは簡単だが、高山国平定を見れば九州や京からバテレンを追放した所で、問題は解決しない。
下手をしたら、キリシタン一揆に悩まされるだけに終わっただろうからな。
信忠は目先の問題解決より、長期的な解決を選んだ訳だ。
こうした制度が確立するのは、信嗣の代であり、1630年代の事だった。
先生の頃は、1633年天皇祭祀化の完成としてハッキリ年表が示されていたんだが、今はそうじゃない。
1633年は国教会化を明文化した年ではあるが、西方キリスト教社会からは以後も聖公会の様な正式な形で承認されていないし、東方教会系の日本正教会が後に作られているくらいだ。南蛮寺派という独自宗派として扱うというのが、現在の歴史学における主流になってきている。
ただ、南蛮寺派であれ、京国教会であれ、日本における天皇祭祀化がこれによって完成し、政治の場から完全に朝廷を排除する事に成功したのは確かだった。
これと対を成すのが徳川幕府の存在だ。
鎌倉、室町という天下に号令する幕府とは性質が大きく変化し、平安の世に回帰したと言って良い。
そうだな。ラノベ小説だと辺境伯と対比されていたりする。
辺境伯というのは一部の国にあったモノで、欧州の王政貴族階級全てにあった訳じゃないが、説明としては近いだろう。
征夷大将軍には独自の軍権があり、北方蝦夷の征伐、服属は自由裁量で行えた。
これが、北方平定に寄与した徳川幕府に確固とした地位を与える根源だが、いわばそこまで。尾張で行う天下の政治に関与する権限は有していなかった。
平安時代の朝廷が、武士にとって代わられたのは、政治に武士を関与させ、あまつさえ政争の決定打となってしまった事だが、織田政権においては、武士を束ねる幕府を北面平定に限定し、国内の政治に関与させない制度を確立したと言える。
おっと、そろそろ時間だ。




