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3時限目・大冒険時代

 さあ、授業を始めるぞー


 1588年の惣配置令によって多数の大名家が日本から姿を消し、蝦夷征伐へ赴いた。


 大軍による攻略であったが、敵は人間ではなく大自然だったんだ。


 当時、蝦夷の人口はわずか数万人のアイヌであったと言われている。


 そこへ攻め入った軍勢は10万以上だった。


 しかし、軍勢は人間を敵とするより遥かに長い時間を熊や原野と戦う事になり、一部を除いて海岸からの上陸も難しく、陸路は森と野生動物の支配下にあった。


 確かに石狩平野や十勝平野は広いが、それ以外は険しい山やヒグマの様な強力な獣の住処だった。そうと知らずに海から眺めた討伐軍は、森へと分け入り厳しい地形やヒグマとの格闘に明け暮れる事になる。


 素早くアイヌを取り入れた伊達政宗が如何に別格だったかは、蝦夷攻略史を見れば明らかだからな。


 津軽や蘆名、最上の様に森と熊に飲み込まれた大名家の方が多い。

 後衛の三河武士や坂東武者も、足掛かりが出来たからと蝦夷へ渡り、強かに洗礼を浴びて打ちのめされているからな。


 そんな中でも、秀康に付き従い蝦夷へ入った本多忠勝や水野勝成の活躍は有名だな。


 熊と戦いアイヌと酒を酌み交わし、谷を跨いで峠を越えて今の旭川まで至っている。


 北条家など、佐竹氏や新発田氏を取り込み釧路、根室へと入っている。


 北条氏は信忠から助言されるまでもなく、アイヌの取り込みを進め知床を越えて北氷海(オホーツク)を望む大海岸線を発見した。これが十勝開拓の始まりといって良いだろう。


 蝦夷討伐は2年もすると討伐、攻略というより冒険の色合いが濃くなり、いつの間にやら入植、開墾が誰に命じられた訳でもなく大規模に始まって行く。


 唯一、冒険と攻略を両立させ、日本の領土拡大に貢献したのが、伊達政宗だった。


 彼は蝦夷から樺太へ渡り、各地のアイヌを配下に治めながら北上し、伊達海峡を発見して樺太が島であることが判明した。


 信忠はその報に触れ、蝦夷、樺太を日本へ組み込む為に新たに蝦夷と樺太を北海道と命名している。


 こうして八つ目の道となり、蝦夷の名も日高見へと改まる。


 そうなると、蝦夷討伐を目的とする将軍の座所が陸奥ではおかしいという事で、樺太や日高見に国が置かれるとともに、将軍の座所である幕府は日高見へと移り、今の函館へと1595年に転封されることになった。

 こうして、蝦夷はさらに北へ東へと広がり、北氷海(オホーツク)を越えて千島や勘察加(カムチャツカ)へと遠征する事になった。

 

 札幌?


 札幌へ幕府が移るのは石狩の開墾が進んだ1620年だと言われているが、異論があるのも確かで、よく分からんそうだ。

 


 そうはいっても、まさか日高見だけでも巨大で、樺太と合わせたら北陸、東北の大名が有していた領地以上の面積だなんて、当時は信忠も知る由が無かっただろうな。

 それが分かるのは、近代的な測量が行われた18世紀後半になってからだ。


 北海道の開拓は、米が育たない土地と言う事でかなり困難を極めたが、当時日本へやって来ていた南蛮人によって、ライ麦や馬鈴薯(ジャガイモ)がもたらされ、さらに羊の導入によって大きく改善していくことになった。

 樺太では、伊達政宗が大豆栽培を奨励した事で広大な大豆畑が広がることになった。樺太といえば「ずんだ」が有名だが、あれは伊達政宗に由来するものだと言われている。

 彼は新し物好きで、ライ麦が導入されると早速その栽培に取り組み、北欧の保存食同様に固焼きにしたり黒パンの製造もおこなっている。

 黒パンについては飲料製造もおこなわれ、なぜか東欧のクワス同様、樺太でもクワスと呼ばれているんだが、名前の由来は外来語ではなく、病人や乳児でもこれを飲めば栄養補給が出来る事から「食わず酒」と呼ばれ、そこからクワズとなり、いつのまにやら濁らなくなったと言われている。北海道飲料が販売してるから、モノ自体は説明の必要は無いな?


 そうだ。クワスは酒に分類されないから誰でも飲めるもんな。といっても、甘酒同様にアルコールに弱い奴は酔う事もあるから気を付けるんだぞ。


 伊達政宗の話が続くが、彼は宍芬(にくふん)族や小呂胡(オロッコ)族を配下とし、樺太統一を成し遂げた。

 そして、宍芬族の住む対岸へと渡り、三丹探検をしている。


 その後、伊達家は北氷海(オホーツク)沿岸をぐるりと勘察加(カムチャツカ)へと探検することになり、北氷海が内海であることを発見した。それでも伊達海とは呼ばれていないんだがな。伊達海峡の名前があるんだから勘弁してほしいよな。


 こうして北氷海沿岸の探検は17世紀を通じて大規模に行われ、その探検のために羊毛需要が増していった。

 樺太も、いつのまにやら毛皮貿易から徐々に牧羊へと変遷を遂げていくんだが、本州から人が入っていった日高見(北海道)とは違い、先住民と日高見から流れた人々が居住した関係で、かなり早くから肉食が主流となっていたそうだ。ずんだ詰めをベジタリアン向けソーセージととるか、樺太のゲテモノととるかは、みんなに任せるがな。


 さて、話を戻そう。


 1588年の蝦夷征伐開始によって関東以北の大名家はその多くが一掃された。


 多くの困難もあったが、伊達政宗や南部信直などの成功例に西国大名たちも新たな領地を夢見ていた。


 1593年、羽柴秀吉が信忠に対して朝鮮出兵を願い出るが拒否されている。信忠は朝鮮ではなく高山国(台湾)平定を命じ、九鬼船の大船団を預ける事となった。


 秀吉からすれば不満の残る結果となったが、温暖で米作に適した高山国(台湾)の方が得るに利が大きいのは確かだった。


 信忠は北方拡大で樺太まで行っている伊達政宗からの報告もあって、大陸の事情について秀吉より詳しかったのかもしれない。

 三丹の西は、後の清を建てるヌルハチが勢力を拡大している最中で、朝鮮へ攻め入った場合はその勢力とぶつかる可能性があった。

 わざわざ成長中の強敵と当たるのは不利と見たんだろうな。


 そして、1594年には正式に高山征伐が始まり、まずは琉球が服属、そして高山国(台湾)へと上陸したのだが、国としての体は為しておらず、後に高砂族と呼ばれる人々との戦いとなった。


 相手が高砂ならこちらは島津。そりゃ、肉体言語で語り合うしかないわな。


 ただ、それが功を奏したのか1596年には高山北部をほぼ掌握する事に成功した。東海岸は山が連続する地域なので西岸の平野部を南進しながらさらに支配地域を広げていったわけだが、総司令官である秀吉が不明瞭な言動が多くなり、尾張へ呼び出し隠居を命じ、養子に入っていた信忠の次男秀則が後を継ぐことになった。


 こうして、信忠にとっては羽柴秀則という息子を立てての高山平定となり、何の憂いも無くなった訳だ。


 こうして、高山平野部を1600年にはほぼ平定する。


 北と同じであれば島津や毛利が送り込まれ、中国九州は羽柴のものになると思うのだが、高山国(台湾)へは羽柴秀則、息子を転封させた。


 お、今日はここまでだな。

 

 

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― 新着の感想 ―
しかし、現代日本からの転生、憑依者が今後現れても信忠のヤラカシの所為で異世界転生と勘違いしそうと言うか歴史チートが無効で絶望するまでがセットで見える
島津は首置いてけ!の影響で、完全に首狩り族のイメージですよねw 秀吉は隠居したら、憑き物が落ちたようになるかもですね。
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