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2時限目・征夷大将軍

 はい、授業を始めるぞー


 前回は徳川騒動だったな。


 徳川騒動で家康を倒した信忠は、不思議な事に徳川家を取り潰しにしたり、族滅なんて処置は取らなかった。


 まあ、そう先走るな。そりゃ、ゲームやってる奴は知ってるだろ。将軍秀康。


 しかし、もう少し待て。まだその時では無い。


 1585年、徳川を屈伏させた信忠は東北へ向けて惣無事令を発した。


 もちろん、従うなんて思っていたわけではないので、柴田、滝川を配して攻勢の構えで臨んでいる。


 多くの大名は織田家の武力に屈した。


 だが、ひとり従わなかったのが、有名な伊達政宗だった。


 後の武勇伝や破天荒を考えるとわかる通りだな。


 そんな政宗だったが、信忠と直接対峙して数日で恭順を示した。


 今では、惣無事令違反は自分を高く売るための行動だったと言うのが定説だが、伊達家には面白い話が残っている。


 政宗の軍勢は滝川軍を物ともせずに戦い続け、堪りかねた滝川一益が信忠に援軍を求めた。


 そして、軍勢を率いた信忠がやって来たのだが、政宗は信忠をも小馬鹿にして従う気などなく、あわよくば倒そうと息巻いていたある夜、目を覚ますと男が自分の頬を刀でペチペチやっている。


「よう、伊達の若武者。ここで殺るか下るか決めてもらおうか」


 男はそう言ったんだそうだ。


 身動きすら出来ずに「下る」としか言えず、翌日信忠の陣へ赴いてみれば、昨日見た男が上座に居た。


 忍びを全て排除して、まったく気付かれずに自分の頬をペチペチしていたのが信忠だと知り、歯向かう気力をポッキリ折られたんだそうだ。


 え?有名すぎる?


 まあ、有名な逸話だからな。しかも、伊達家にしか伝わっていないから、政宗が面子を守るためにした創作ってのが有力だ。


 とは言え、誰の前でも不敵不遜な態度の政宗が、信忠の前だけは、酒が入ろうと礼儀正しく居たって話だからな。なんでだろうな。


 この頃の織田政権は、その本拠を安土から尾張へ戻していた。


 信長と信忠の対立はその本拠地をどこに置くかが最大の問題だった。


 信長は京との便が良い安土を選んだが、信忠は名古屋、つまり尾張を推していた。


 本能寺騒動の後、信忠は名古屋城の大改造を指示して安土城を超える、今見るあの城郭を作った訳だ。


 そこを拠点に政治を行う体制を作る。


 だから、間近に徳川が居るのが邪魔だったんだな。


 徳川騒動や東北鎮撫を進める信忠が尾張を拠点に選んだのは、自分の本貫地だからなんて話ではなかった。


 木曽の材木を尾張に運び出し、九鬼に船を作らせ伊勢湾を経済拠点にするためだった。


 いわゆる九鬼船だな。


 九鬼船は、ジャンク船とキャラックやガレオンなどの南蛮船を比較研究し、竜骨を備えて高い帆柱を持つが、ガレオンほど船尾を高くしない構造をしていた。

 帆布には竹骨補強が入り、船体にも横材補強で水密区画を多数設けていた。


 それぞれの特長を取り入れた独自の構造に仕上げていた訳だ。


 この船を用いて四国沖や三陸沖の太平洋を突っ切り、九州や東北へ真っ直ぐ行ける様になった事で、安宅船などの旧式船しか持たない他の水軍衆を圧倒する事になる訳だが、この九鬼船の構造でも、信長と信忠は揉めていたと言われている。


 九鬼船が多数完成して船団を組むのは1585年以降の事。

 瀬戸内を介さず九州へ向かえる様になった事で、島津はとうとう降伏する。


 信忠は木曽、紀伊の材木で九鬼船を量産し、大船団の編成が可能になった1588年、惣配置令を発した。


 これによって京周辺、東海、紀伊半島、若狭などから織田譜代以外の大名を完全に排除した。


 その配置は関東、北陸、東北。


 生かした徳川秀康を陸奥に配した。


 じゃあ、北面大名たちはどうなるか分かるよな?


 陸奥に配されれ征夷大将軍に任じられた秀康は、三河武士や坂東武者を束ね、さらに北面大名たちを率いて蝦夷平定を命じられたんだ。


 多くの大名は信忠に叛意を抱いたが、土地と切離され、強大な織田軍に槍を向けられたらそれまでだった。


 織田家には秀吉と言う先例があるから「蝦夷は広いぞ、切り取り次第だ。秀吉の後に続け」と言われ、何も言えずに船に押し込まれた訳だ。


 これで分かる様に、源頼朝、足利尊氏が征夷大将軍を政治の為に利用した先例を破壊し、源氏を名乗る徳川は平安の世と同じ蝦夷征伐の為に征夷大将軍となり、北方平定の任に当たる事になった。


 将軍本来の役割を取り戻した訳だな。


 蝦夷平定は楽な道のりではなかったとよく知られている。


 北陸、東北よりも厳しい気候で家臣団は倒れ、多くの大名家が土に還ったくらいだからな。


 前線に立つのは豪雪地帯の武士たちで、信忠なりの算段あっての事だったのだろうが、現実の気候はさらに厳しかったんだ。


 大名たちも、当初は威勢よく支配地を広げたと報告していたが、次第に窮状を訴えるようになる。


 そうなってはじめて、現地の部族を巧みに取り入れて越冬術を教わり案内人としてさらなる集落を配下に治めていった伊達政宗のやり方を見倣う様になった。


 政宗は惣配置令に際して抗議の為に信忠を訪ねている。

 結局はトラウマから何も言えずに従っているが、伊達家には、この時蝦夷攻略の秘訣と何処を攻略するのが利が大きいかを教えられたと伝わっているそうだ。


 それが本当かどうか分からないが、伊達政宗は苫小牧から石狩へかけて攻略し、小樽から宗谷を目指して船を出し、樺太攻略に乗り出しているのは事実だ。

 確かに一番旨味がある地域を総なめした上で樺太まで手を出しているからな。


 さて、今日はここまでみたいだ。



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― 新着の感想 ―
この作中の信忠もしかして?
まあ、樺太へは行かせますよねwどこまで行くのか楽しみですw
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