1時限目・天下統一
はいはい、授業を始めるぞー
今日からとうとう天下統一の話になる。
ドラマや漫画、ゲームで知ってるだろうが、あれらの作品は必ずしも歴史に沿っているとは限らない。分かるな?
織田家の地位を確固とした出来事は、皮肉な事にそれまで勢力拡大を続けてきた信長の死だった。
戦国好きなら武田や上杉がどれだけ強かったかを語るだろ?
しかし、それは信玄や謙信が凄かったという話だな。
もし後継者が居たら、彼らがもっと長く生きていたらって語られる事も多い。
そのもしもをリアルにやってるのが織田家だった。
そりゃ強くて当然だわな。
本能寺の乱や本能寺騒動と呼ばれる事件が起きたのは、1582年6月。
織田信長の重臣だった明智光秀が、あろうことか京に在する主君に謀反を起こしたんだ。
ああ、しょっちゅうドラマになっているし、漫画やゲームにもなって居るから有名だな。
創作で最もポピュラーな展開は、信忠黒幕説だな。
信長と信忠は政治の方向性が食い違っていて、この頃はよく喧嘩をしていたと、様々な史料から知られている。
そんな信忠が光秀を使って信長暗殺を実行したという奴な。
さらに秀吉を使い、光秀を弔い合戦と称して口封じをするって事になっているが、信忠の伝記や織田実録だけでなく、京の貴族や秀吉、光秀の家臣の記録にも、山﨑の合戦後に現れた信忠は何日も山を彷徨い歩いた姿だったと記されている。
織田家が苦労話や武勇伝として遺した記録だけなら疑わしいが、個人の手記の類にまでそう記されてるのは、信忠黒幕説を否定するのに十分だろうな。
秀吉や秀吉軍の武将皆が信忠の生存に驚いてるんだ、黒幕が生きていると知っていたとして、スマホやネットどころか、無線機もない時代に、口裏合わせで皆が揃って驚いたふりをするのは無理だろ?
結局、清洲仕置きで処罰された面々を見ると、あまり計画性があったとは言えない事が分かるはずだな。
ん?
ああ、松姫か?
確かに遠距離恋愛の話は有名だな。
武田滅亡時に松姫が逃がされているのが、信忠の差配だった可能性は確かにあるだろうな。
清洲仕置きのあと、自ら迎えに行ったのは創作ではなくほぼ間違いなく事実とされているし、どんな史料にも、その後松姫が正室扱いを受けていたと記されている。
1584年に生まれた子に元服で信晴って名付けてるのも、武田の血を受け継いだって示すためだろうしな。
信長は松姫を迎える事に反対だったというのが暗殺理由として挙がる事も多いが、だったら自分で手を下すはずだな。
光秀にやらせる理由がないじゃないか。
信忠以外の黒幕としては、秀吉説と言うのがある。
秀吉に男児はおらず、信忠の弟にあたる秀勝を養子として迎えていた。
彼が後継者となれば織田家の血筋だから、謀反を起こしても問題ないって説だな。
さすがに光秀単独犯説や複数共犯説が数多語られるなかでも、秀吉を犯人とするには、彼に旨味が無さすぎる。
結局秀勝も病没し、信忠の次男が羽柴家へ養子に入り、秀則を名乗るんだからさ。謀反に加担してもどうせ織田に還るんだ、やり損じゃないか。
本能寺騒動で面白い話がある。
信忠も戦国武将だから野営は普通に出来たとは思うが、妙覚寺を襲撃されて逃亡したのち、10日間も身を隠しながら明智軍の動向を探り、山﨑の戦いの後、敗走する光秀を自ら討ち取ったと言われている。
新陰流の免許皆伝だったし、付き従う郎党がいたにしても、普通ならやらんだろうな。
そんな事から信忠忍者説とか言い出す奴も居るんだ。与太も良い所だな。ただ、散策や山狩りが好きで、今でいうサバイバル好きだったという記録があるから、本格的ではなくとも、忍者の技を身に着けていたのかも知れんなぁ。
山﨑の戦いの後、清洲仕置きで謀反に加担、或は便乗した者たちが処罰されたが、織田家の中からも、信雄が安土城失火の責で処罰されている。
城に放火したのは信雄の弁明通り野盗だったかも知れないが、野盗が入る様な警備の空白を作ったのは、彼だったのだから仕方ない。
最大の功労者は秀吉で、中国、九州を任されたのは当然だっただろうな。もちろん、討伐、平定付きでだが。
信忠自身は松姫を迎えに行き、そのまま東国支配を進めている。
織田政権による天下統一をいつにするかは、昔から議論が続いている。
源氏や足利氏は幕府を開いて政権基盤としたから、その時点という明確なポイントを設ける事が出来るが、織田政権はそうではない。
ああ、なんで織田信忠が幕府を開かなかったかって?
それは、織田家が征夷大将軍を担う源氏ではなく、朝廷の政治を担う平氏だったからと云われている。
その立場に立てば、信忠ではなく、父の信長が足利氏を追放した時点から織田政権という説もあるんだ。
今の有力な説は、1582年7月の清洲仕置きで信忠が権力基盤を確立した時点と言うものだ。
先生が皆と同じ学生だった頃は、惣配置令が出された1588年って言われていたよ。
清洲仕置きで権力基盤を盤石にした信忠は、中国、九州平定を秀吉に、四国平定を弟信孝に任せた。
秀吉は既に毛利と和議を結んで帰って来ていたから、それを正式なものにする外交がしばらく主になるな。
四国を任された信孝も、事実上は光秀がそれまで話し合いをしていた長宗我部とは積極的には戦わない方針で事を進めている。
北陸は柴田が、関東は滝川が将として勢力圏を拡げ、次々と大名を下していった。
1584年には秀吉が九州征伐を開始しているが、東海で事件が起きた。
徳川騒動と呼ばれるもので、信忠が家康が松姫を狙っていると因縁をつけた争いだ。
事実はどうか分からんが、旧武田家臣団の扱いについて家康が松姫に話がしたいと持ちかけたのは確からしい。
どちらかと言うと、後の信晴に武田再興を求めた家康とそれに反対する信忠の対立と言うのが実態らしいが、当時はそう伝えられなかった。
こうして、信忠は徳川討伐を命じ自ら出陣する。
戦いは当初徳川方有利に見えたが、信忠自身が率いる少数精鋭が家康本陣を襲って決着をつけた。
さすがに作り話だろうと思われていたが、信長亡き後の信忠って、こういう事がこのあと多くなるんだよな。「若かりし日の信長を超えるうつけ」なんて表する歴史家や作家がいるくらいだ。
ただ、これはしっかり複数の歴史書にある事なんだが、信忠は「家康は、放っておけばあと30年警戒を続ける必要がある。あのようなタヌキは早々に始末するに限る」という言葉を残しているらしいんだ。真相はわからん。
あと30年って、家康が70まで生きるって前提の話で、自分が寿命を迎える前に確実に消したかったって意味だと言われているな。それにしても30年はないと思うがなぁ。
さて、今日はここまで。




