39時限目・三選工作
ほーい、授業だー
1937年、アメリカ大統領は再選を果たし、ニューディール政策を推し進めていた。
日本、とくに浦前の岬では厳戒体制が敷かれる様な状態になっていたんだ。
対岸のオリンピック半島こそ非武装だが、この頃には飛行機でひとっ飛びすれば爆撃が可能になっていたからな。
そんな日本を尻目に、アメリカは併合したメキシコはカリフォルニア湾へと一大工廠の建設を行い、大軍港を作り上げていた。
今じゃカリフォルニア湾汚染の元凶として忌み嫌われる廃墟に過ぎないが、この施設もニューディール政策を支える基盤だった。
1933年に結ばれたロンドン海軍軍縮条約は戦艦や巡洋戦艦の数は制限したが、巡洋艦以下の艦艇には制限が加えられていない。
当時は戦艦、巡洋戦艦の制限だけで手一杯だったからな。もし、巡洋艦以下の制限まで話をしようものならアメリカの離脱は目に見えていた。
そんな条約で定められたのは、戦艦、巡洋戦艦の排水量、砲口径を制限する事。唯一、巡洋艦については8インチ以下って制限は付けられた。流石にこれをやらないと「巡洋艦です」と言って新たな巡洋戦艦を無制限に作りかねなかったからだ。
どこがとは言わんが。
だが、ここにひとつの懸念が産まれた。
そう、ドイツの再軍備宣言だ。
ドイツはすでに巡洋艦よりも大口径な主砲を備えるポケット戦艦を作り上げており、条約外に放置して良いのかって意見がフランスから出ていた。
そのフランスはポケット戦艦対策と称してダンケルク級戦艦を建造していたので、ある意味で切実な課題だったんだろう。
当のドイツはと言うと、ドイッチュラント級装甲艦を3隻で取り止め、それに続く艦はロンドン海軍軍縮条約に則る戦艦とする事を宣言、シャルンホルスト級戦艦の建造を始めたんだ。
迅速な方針転換はアメリカからの技術導入あっての事で、外観こそポケット戦艦の意匠をしているが、中身はアメリカ戦艦だった。
基準排水量3万5千トン、38センチ三連装砲塔3基と、口径や外観こそドイツの考えが反映されたがな。
その発表を聞いて、イギリス、フランスは条約改定を各国に呼びかけたのは当然だろう。
だが、アメリカがそれに乗らなかった。
大統領選挙の公約にすら「ヨーロッパの制約はこれ以上受け付けない」って入れていたくらいだ。
一応、条約期限の5年は新規建造しないとは表明したが、それだけだった。
対して日本はイギリス、フランスと共同歩調をとり、ドイツを含めた新条約交渉参加を表明する。
では、ドイツはどうしたか?
ドイツは、この新条約交渉への参加を表明したんだ。
こうして、ベルリンで新たな海軍軍縮会議が開かれる。
この中でドイツは戦艦6隻の保有が認められ、シャルンホルスト級戦艦の保有が確定した。
フランスにはその対抗艦を旧式戦艦を代替する形で建造出来るようにもなった。
イギリスも同様の条件が認められ、15インチ戦艦の更新を決めた。
こうして、1938年にはベルリン海軍軍縮条約が締結されたが、そこにアメリカの姿は無い。
アメリカはこの年、条約失効を理由に新たな戦艦建造を開始するんだ。
ベルリン海軍軍縮条約を成功させたヒトラーは、世界にその成果を宣伝し、自らを平和の使者と嘯く。
当時のヨーロッパはポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーがロシアと揉め、互いにも離合集散を繰り返す東欧紛争が数年起きに繰り返されていたから、ウソとも言えないんだがなぁ
それに対してアジアは、アメリカ領遼東半島の総督としてダグラス・マッカーサーが就任する。
彼の前職は陸軍参謀長というエリート中のエリートだったが、大統領の進めるニューディール政策には批判的で、アジア軍での勤務経験もある人物だった。
そんな彼は大統領の対日政策とは真反対の協調政策を進め、満州国やアメリカ領遼東半島、山東半島租借地と日本の貿易はかつてない活況を見せる事になる。
アメリカ大統領は黄禍論や華夷秩序の信奉者で日本を酷く敵視していたが、アジアでの赴任経験を持ち、人種差別をしないマッカーサーは、日本に寛容だった。
もちろん、マッカーサーが純粋に日本を好意的に見ていたかは分からないが、漢大陸にあまり欲を持たない日本は利用出来るとは考えていた。
ヨーロッパから見ても、日本の態度は不思議だったらしいんだが、日本の立場を理解していたのは、イギリスだっただろう。
イギリスも、ヨーロッパ大陸から一定の距離を保ち、力の均衡を目指していたからだ。
日本も、新明と友好関係にはあるが、新明が中原統一を行う事には関与する気がなかった。
ましてや満州国が再度大陸王朝を目指すなど、論外だった。
この辺りの考えは、イギリスも似たようなものだったので共同歩調が採れたわけだ。
じゃあ、アメリカはどうだったか?
マッカーサーの様な知漢派の人々は日本やイギリスの考えに近かった。
彼らも統一国家よりも分裂状態のままコントロールした方がうまくいくと考えている節があった。
ところが、大統領をはじめとする信漢派はそうではなかった。
ただ、皆が同じ勢力を推しているかというと、それも怪しかったんだ。
大統領は母方の縁もあって天津利権と関係が深く、大漢帝国の末裔である汪兆銘政権を支援していた。
だが、中には満州国を有望と見る者、或いはイギリスから長江利権を搔っ攫おうと蒋介石に近づく者なども居たんだ。
信漢とは言いながら、実は中身は一枚岩とは言い難かった。
それでも、皆が目指す目標は日本打倒だったので、その点では一枚岩と言えただろう。
なぜかは分からないが、この頃のアメリカ、とくにニューディーラーと呼ばれる社会主義者たちの多くは、日本さえ倒せば漢大陸には明るい未来が広がっているという狂信的な妄想に取り付かれていたんだ。
その目的達成のために、ロンドン条約の失効と共に大軍拡が再開されることになった。
知っての通り、軍拡による経済浮揚は一時的なモノに過ぎない。
しかも、この時のアメリカは工廠をカリフォルニア湾へと建設していたから、旧アメリカ本土への恩恵は、国内インフラに大規模投資が行われた時に比べて極めて限られたものになってしまったんだ。
1939年になると一期目に実施した公共事業はその多くが完成するか完成見通しが立ち、好景気には先細り感が見えていた。
そこに大量の鉄鋼を投入する大軍拡が開始されたので、鉄鋼生産は旺盛だが、民需への分配が少なく値上がりが起きていたんだ。
そうなると、公共事業の終了による失業の不安から自動車や住宅の買い控えが起こり、経済の先細りが誰の目にも明らかだった。
そんな情勢の中、なんと大統領は慣例であった大統領任期期限である2期を越え、その椅子に居座り続けようとしたんだ。
そのために、対独借款の停止と短期借款の償還を催促する挙に出た。
そんな事をされると、ドイツ経済は止まるしかなくなるんだがな。
その事を事前に知らされたヒトラーは、1939年8月、かねてより工作を行っていたアンシュルスを強引に実行した。
さらに息つく暇なくチェコスロバキアへとズデーテン地方割譲の脅迫を行うんだ。
この急な動きにイギリスやフランスは全くついて行けず、ただただ騒ぐばかりで何も出来なかった。
こうして1939年12月7日、チェコスロバキアに対する回答期限を迎えたドイツは、チェコスロバキア侵攻に打って出るんだ。
この侵攻を非難する声明を出した中に、アメリカの姿もあった。
まるで、ドイツが侵攻したから借款を停止した様な口ぶりだったが、事前に翌年から借款を停止する事を伝えていたのだから、こうなるように仕向けていたと言って間違いない。
こうしてヨーロッパで火の手が上がり、ヒトラーはズデーテン占領が成功するのを待たず、さらにポーランドに対しても、ポーランド回廊の解放を要求し、1940年を迎える頃にはイギリス、フランスとも抜き差しならない緊張関係が生じる様になっていた。
それを見たルーズベルト大統領は、ヨーロッパの緊張に対応すると言って民主党候補を立てず、自身が三選に臨む事を宣言したんだ。
おっと、時間だな。




