37時限目・ロンドン海軍軍縮条約
さあ、授業の時間だー
さて、前回は幣原外交についてだったな。
幣原外交で何か評価する点を挙げるとすれば、日米の戦力差が極端に開いて日本が敗亡してしまう事を防いだって事になるんだろうが、それはどう見ても偶然の産物でしかない。
以前も言ったと思うが、アメリカという国は、あまりにも大陸と親和性があり過ぎた。そのせいで華夷秩序の危険性を理解することなく取り込まれてしまい、自然と日本を西夷として倒すことが宿命かのように思い込んでしまったんだ。
そうした事を踏まえれば、幣原外交による宥和政策が無くとも結果が変わる事は無かったという意見が多い。
仮に、アメリカがヨーロッパの話に耳を傾けたとしても、それで大きく事態が動いたかというと、それもそれで疑問と言わざるを得ないだろうとも言われている。
そんな訳で、張作霖列車爆発事件の後の出来事から話をはじめようか。
日本がこの事件に関与していなかったのはほぼ間違いないが、幣原の失言によって対日批判が起こる事になった。
その上、新明が蒋介石支援に回ったことで大漢民国の復活を宣言した蒋介石ら民主派が南京を首都と宣言して北京の立憲君主派と本格的な武装闘争へと突入してしまったんだ。
もちろん、蒋介石は新明だけでなく、イギリスの支援も入っていると見られていた。
そうした民主派優勢の情勢の中、張作霖という軍事力を失った北京政府を打ち倒そうと北伐を開始したんだ。
1931年には北伐軍は山東半島へと至ったのだが、ここで青島事件が発生したんだ。
青島は租借こそ出来なかったが、アメリカが幅を利かせるアメリカ町と言って良い状態だったんだ。
そんな街へ雪崩れ込んだ蒋介石の軍隊は、略奪暴虐の限りを尽くした。
当然、駐留するアメリカ軍は反撃したのだが、多勢に無勢で何とか居留民の生き残りを集めて籠城するのがやっとだった。
どうにか、大連に駐留するコーストガード船隊が間に合って事なきを得たが、アメリカは報復として満州の保安官隊を招集して青島に逆上陸して街を占領したんだ。
さらにひと月後には、アメリカ本土から増援部隊を送り込んで山東半島を占領してしまった。
この事件に対して蒋介石は激しい非難を行ったが、誰も取り合う者はいなかった。
そりゃあそうだ、アメリカの新聞が報じた青島の惨状は酷いものだったんだから、ヨーロッパの誰もが取り合わず、新明も沈黙を通したんだ。
当然だが、北京政府はここぞとばかりに民主派の残虐性を宣伝する。
そして、武器援助を条件に、アメリカによる山東半島の「保証占領」を容認したんだ。
だが、いくら武器援助を受けても、あまり国民の支持を受けていない北京政府の軍は士気が低く戦力としてもまるで頼りにならなかった。
1931年11月、あまりに士気の低い北京政府軍は結局北京を守れず敗走する事になってしまうんだ。
そして1932年3月1日、アメリカは大連に亡命していた清国最後の皇帝溥儀を皇帝に据え、満州国の建国を宣言するに至る。
ここで新たに米満条約を結び、満州へのアメリカ軍駐留を認めさせようとしたのだが、日本を含む各国がそれに反対し、その計画はとん挫するんだ。
この頃には、アメリカにおいて抜き差しならない様な経済問題が生じていた。
考えればわかる話なんだが、アメリカは中米を事実上併合しているだろう?
それから15年の時が流れ、中米から流れ込んだ流入民によって治安は悪化、特にメキシコで武装闘争をやっていた集団の一部が、軍や警察の目を逃れてマフィア化して暗躍しだしていたんだ。
そんなアメリカは、この頃45隻の戦艦を中心とした700隻艦隊の建設を行っていたんだが、あまりにも膨大な治安予算と海軍予算で首が回らなくなっていた。
さらに、中米からの流入民を安く雇用する「新奴隷」が横行して雇用環境も悪化の一途を辿っていた。
さらに、ヨーロッパ投資の多くをドイツに絞ったことで貿易業績も悪化し、頼みの大陸は紛争で貿易拡大どころではなくなっていたんだから、もうどうしようもなかったんだろう。
その打開策と行ったのが、満州国建国だったわけだ。
そして、ローマ海軍軍縮条約から10年を迎えるのに合わせ、条約見直し協議が行われることになり、再び日米へと声がかかった時、ようやくアメリカは首を縦に振るんだ。
こうして、ロンドンで開かれた会議は長期化する事になった。
なにせ、すでにアメリカは40隻に上る戦艦を新造していたから、その廃艦を迫られても簡単に認められる訳がなかったからだ。
日本は土器型6隻と扶桑型4隻の廃艦に同意してアメリカとの違いを見せつけている。
まあ、土器型はそろそろ廃艦が近かったし、扶桑型も要塞型巡洋艦の延長で、本格的な高速戦艦としては失敗って評判だったから、廃艦にしても惜しくなかったって事情があったんだがな。
日本が10隻の戦艦を廃艦にする事に応じた結果、アメリカは旧式戦艦全ての廃艦に応じて何とか体裁を保つんだが、当時のアメリカ財政はそうしないと中米の治安予算が膨大で、もはや立ち行かなかったんだがな。
さらにアメリカは浦前の岬の非武装化まで言い出し、会議を引っ掻き回すんだ。
何が目的かは明らかだったから、日本は交換条件としてアメリカ西海岸の非武装化やパナマ運河の軍事利用禁止を提示した。
もちろん、アメリカに飲めるはずが無い条件だ。
アメリカはそれに対してさらに南洋の非武装化まで言い出したんだ。
アメリカには思慮って言葉が無いのかと疑いたくなる様な提案に、各国代表があ然とする。
南洋の非武装化が現実となれば、得をするのはアメリカひとり。
東天竺の東を領有するフランスにも関わる話だから、日米対立で話は済まない。
だが、アメリカにはそんな事情なんかまるで考慮する気がないのは明白だった。
この時、非武装化提案に当たって、イギリス、フランスへの根回しなど一切なく、日本がフランスを巻き込もうとも、まるで意に介していなかったほどだったからな。
結局、アメリカはパナマ運河の軍事利用禁止なんかまるで受け入れる余地がなかったから、浦前の岬の非武装化を取り下げる以外に無くなる。
こうして結ばれたロンドン海軍軍縮条約は、数字の上ではアメリカの一人勝ちに見えたが、完全に世界を敵に回したアメリカ一国の海軍力は、決して飛び抜けている訳ではなかった。
アメリカと日本の戦艦数は、日本が18隻に対してアメリカ18隻と拮抗出来たからな。
計算が合わないって?
そのカラクリは、イギリスが退役させる戦艦の一部をブラジルへ売却し、軍縮条約に参加していないスペインが日本の支援で新型戦艦2隻の建造を決めたからだよ。
その対応に、アメリカは大西洋へ戦艦を厚く配備する事になったんだ。
それが、太平洋での日米拮抗に繋がっているんだな。
こうして、軍縮条約によってアメリカ包囲網の様な形が作られる結果になったんだ。
おっと、時間だ。




