36時限目・幣原外交
ほいほーい、授業の時間だぞー
さて、前回は第一次大戦後の列島農業について話したが、今回はまた世界へと目を向け歴史の話をしていこうと思う。
まず、大陸では1916年に皇帝袁世凱が病死し、蒋介石ら民主派と黎元洪をはじめとする立憲君主派の対立が表面化したんだ。
だが、大漢帝国にはアメリカという歴然とした脅威があったことですぐにそれが体制崩壊に繋がる事は無く、皇太子袁克定を即位させ、体制の維持を図ることになったんだ。
そうしなければ、アメリカが内政に介入して傀儡化されていたかもしれなかったからな。
こうして何とか表面上の体制維持が行われていたが、満州ではアメリカの影響拡大が顕著だったんだ。
アメリカは張作霖を利用し、間接支配の体制を着々と築き上げていた。
ただの馬賊に過ぎなかった張作霖だったが、1918年頃にはまるで一国の元首のように振舞っていた。もはや満州は大漢帝国の領土ではなく、張作霖の治める独立国といった様相だったと言って良い。
この状況に対して日本がどのような態度をとったかというと、消極的な張作霖支援だった。
過度にアメリカに靡かない程度に支援を行い、どっちつかずの体制を維持しようとしていたんだ。
張作霖自身、満州をひとつの独立国として漢から切り離す事には懐疑的で、制度上は自治領として大漢帝国の一部であると称していたんだ。
その建前を維持するために北京政府への納税も行っていたし、税を超える朝貢にも応じていたんだ。
さらに、北京政府の体制が不安定な事からアメリカによって潤沢な武器を有する張作霖軍が軍事的な支援も行っている状況だった。
本来なら、これは日本にとってあまり好ましくない。
アメリカの影響下にある強力な軍隊が直近に存在するのは、ただただ脅威でしかないのは明らかだったからだ。
しかし、朝鮮や列島の政治家や官僚から見れば、それは支援すべき、或いは共感する相手と見なしていたんだ。
とくに、この頃帝国政府の外交を預かる外務官となった幣原喜重郎は満州宥和を推進する外交を進め、それによってアメリカとの関係改善を目指していたんだ。
いわゆる幣原外交と呼ばれる政策だな。
幣原は経済的に張作霖を支える事を基本とし、満州の農業改善に大きく関与している。
日本から農業技術が提供され、朝鮮や列島からの移民まで行われているんだ。
ただ、工業に関してはアメリカが担っていたから、鞍山製鉄所を中心とする重工業には関わっていなかった。
さらに目をヨーロッパに転じると、経済的に疲弊したイギリス、フランス、イタリアはその軍事負担に耐えかねていたんだ。
その一方で、堅調な経済成長を続け軍の近代化を積極的に進めているロシアが脅威になっていたんだ。
ロシアは、土器型戦艦ガングート級を更に改良した新型戦艦の整備に勤しみ、巡洋艦も要塞型をベースとした新型巡洋艦へと更新を続け、もはやフランスでは手が付けられない戦力にまで膨れ上がっていたんだ。
それも、ムルマンスクという外洋に面した港を中心に艦隊を整備しているのだから、これまでの様な隣接国を利用した封じ込めが通用しない。
ここまで来ると、イギリスだって対抗するのは大きな負担になった。
そこで、イギリスやフランスは日本やアメリカにも声を掛け、海軍軍縮会議の開催を呼びかけるのだが、真っ先にアメリカが難色を示してきた。
当時のアメリカは、イギリスに対抗するため約20隻の戦艦を大西洋やカリブ海に配備し、その上で日本にも対抗しようと旧式戦艦25隻を新型戦艦に更新し太平洋に配備するという大軍拡を実施中だった。
戦艦だけで40隻以上という空前絶後の大艦隊の実現に邁進しており、とてもイギリスの言う事など聞き入れる余地は無かったんだ。
それでももし、日本がこの時イギリスに賛同していれば、軍縮会議は開けたかも知れなかった。
だが、幣原はアメリカの意見を尊重するという理解不能な理由によってイギリスの提案を拒否してしまうんだ。
こうして、日米抜きでの会議がローマで開かれ、欧州における海軍軍縮のみを決めるローマ海軍軍縮条約が1923年に締結されることになった。
どちらかというと、アメリカへの対抗のために協力関係を構築するという色彩が強い内容で、戦艦や巡洋艦の数を大幅に減らすような内容とはならなかった。
この条約によって、アメリカはヨーロッパを脅威と捉え、ドイツを除く各国への経済支援を縮小するように動いたんだが、それを補うのもまた、幣原による対欧経済政策だったのだから、ちょっと何をやっているのか分からんよな。
幣原による優柔不断な政策は、さらに大漢帝国と新明にも影響を与えることになる。
幣原は従来の新明を通す大陸貿易よりも直接貿易を志向し、大連や天津との貿易を増やす政策を採っていくんだ。
この事で大連を支配するアメリカとの関係改善を目論んでいたらしいのだが、当然それは新明や蘭芳公司にとっては裏切りにも等しい行為だった。
この幣原外交の影響もあって、新明は蒋介石に接近して民主派の力が大きくなっていくことになるんだ。
今日の視点で見れば、幣原による外交は場当たり的で希望的観測に満ちたものにしか見えない。
この後の歴史を考えるにつけ、どうしてこんなことが放置されてしまったのかって思いが強くなるんだが、当時はアメリカによる山東攻略などで次に狙われるのが浦前の岬やハワイである事は明白で、それを回避する為に対米融和策を打っていたらしい。
この政策の結果、大連は発展し、その事で張作霖にも野望が芽生えることになってしまったんだ。
大漢帝国は、アヘンに代わって砂糖が膨大な量輸入されることで資金の海外流出が止まらなくなっていた。
それがアヘンであるなら、或いは直接生活に関係がないものであったなら、排斥してしまう事も出来たんだろうが、健康ブームなんてものが無かった当時、砂糖の販売を規制する理由を政府は持ち合わせず、砂糖を規制、制限しようものならその不満は政府へと向かう事に繋がった。
鄭氏はそのコントロールに長けていたが、残念ながら幣原は砂糖貿易のコントロールという考えは一切持たず、輸出の一切を市場に任せていたんだ。
あまりの輸入超過と資金流出、当時の漢は銀本位制だったから主に銀流出なんだが、それに耐えかねた大漢帝国は輸入制限に踏み切った。
当然、それは大きな反発を生み出し、1926年、蒋介石ら民主派による武装蜂起へと至る事になったんだ。
もちろん、砂糖貿易を警戒したのはなにも大漢帝国だけではなかった。
貿易額が膨らむにつれてその利益を日本に吸い取られるアメリカも、日本への警戒感を増す結果となり、幣原外交は全く望まない結果へと転げ落ちていた。
だが、それはまだ序の口だった。
日本国内では1923年に江戸地方で発生した江戸前大震災によって、江戸湾工業地帯が打撃を受け、外交よりも震災復興が優先され、4年近く外交がおざなりにされていたんだ。
幣原外交が再始動した1928年、惰性で支援を続けていた張作霖がのる列車が爆発する事件が発生した。
大漢帝国やアメリカが調査を行うが犯人は特定されず、両者の間で深刻な対立が起きた際、幣原による不用意な発言によって、漢米に日本批判が巻き起こる事になってしまったんだ。
幣原が何を言ったかって?
「親子間における後継問題が爆発事件の引き金ではないか」
って失言したんだ。
大漢帝国はアメリカによる工作を主張し、アメリカは立憲君主派と張作霖の関係に隙間風が吹いていた事による謀殺を主張していたんだ。
今でも犯人が特定されていない謎な事件だが、仮に幣原の言う事が正しかった場合、漢米ともに恣意的な捜査しかやらなかったことになる。
幣原の発言は、誰にとっても不都合だったとしか言いようがなく、この失言によって外務官の座を追われた幣原は、再び政治の場に姿を現すことなく、1946年に亡くなっているんだ。
さて、時間だな。




