35時限目・農家解放
授業の時間だぞー
さて、前回は第一次大戦が終わって、日本は公共投資に資金を投入する事で景気後退を抑えたって話をした。
そのおかげで高山国や呂宋に大水田地帯が誕生する事になり、コメの値段が下がったという話をしたな。
米の値段が下がり、生産量も大幅アップした事で、1930年代には寒凍や北氷道の人たちにも十分な量を供給する事が出来るようになった。
一見して良いことのように思えるのだが、それで困る人たちが現れたんだ。
さて、学校の周りを見回してみようか。グラウンドの向こうに畑が広がっているのが見えるだろう?
あの畑、100年まえには一面の水田だったんだ。想像できるか?
現在の讃岐で米作りをやっている場所はごくごく限られているな。
ところが、僅か100年まえまでは、あの大半の農地は水田だった。
それどころか、今じゃただの草原や林になっている場所だって、その多くが農地だったなんて言ったら信じられるか?
それを示すのが、100年まえの地図だ。多くの場所が水田マークで埋め尽くされているだろう?
ところが、呂宋で開墾や用水整備が進み水田が拓かれると、そこで二期作が普通に行われるようになったんだ。
それまでも南大孤島北部で二期作が行われていたが、南方では季節が逆になるのであまり列島への影響は無かったんだ。
どちらかと言うと、列島でコメが不足する時期に供給されたので、飢饉への対策として喜ばれていたほどだった。
だが、高山国よりさらに作付面積が広い呂宋で二期作が行われてしまうと、もはや列島ではコメ生産が立ち行かなくなってしまったんだ。
高山国や呂宋から大量の米が入って来るようになると、列島ではただ量だけを作っても生き残れなくなった。
そうして次第に農家が困窮しだすと、列島地方政府は農地買い上げ令を発したんだ。
そもそも、列島の農地は一農家辺りの耕地面積が狭かった。
さらに問題だったのは、はるか古来よりの開墾や土地私有、さらに荘園や武家領などが入り乱れ、それらを整理しないと農地整備や生産改善すらうまく出来なくなっていたという理由もあった。
この農地買い上げ令を別の言い方で農家解放と呼ぶ人も居る。
すでに、主要生産作物であったコメの生産や麦の生産が立ち行かなくなっていた多くの農家が、耕地を放棄したり一家離散したりと言う事例が多発して問題となっていたんだ。
そこで、そうした困窮農家から農地を買い上げ、転職や移住の支援をするための事業だった。
ただ、それだけにとどまらず、農地集約や耕地整理という側面もあり、列島の耕地のほぼ半分を一度国が買い上げ、農業を続ける意思を持つ者へと払い下げを行っていく。
こうして町や村の農地は地区ごとにその区割りが再編され、改めて水路や農地の整備が行われ、今の様な形が作られていったんだ。
もちろん、払い下げを受ける者は「先祖伝来の土地」や「稲作の継続」などという安易な理由では許可がでなかった。
広さも一戸の農家が担うには広すぎるほど広く、資金力や計画性がないと農業を続けるのが難しかった。
もし、短期間で放棄や破綻すれば課徴金という罰則が待っていたので、おいそれと買い戻すことが出来ず、各地で農民争議が頻発する事になるのだが、そうであっても地方政府は方針を変えようとしなかったんだ。
なにせ、高山国での農地整備や二期作の普及によって、東北での稲作はもはや壊滅状態となり、身売り出稼ぎが常態化し、移住を希望する者が多かったし、尾張や関東といった稲作適地においてすら、もはや稲作で生活していく事が難しくなっていたんだ。
多くの農家は土地を奪われる事への反発から争議を引き起こしたが、実際に政府が提示する広大な農地を買って、長期間農業を継続できる自信は持ち合わせていなかったんだ。
結果、次第に争議は縮小していき、多くの者は新天地を求めて呂宋や南大孤島へと渡り、残った者たちも集団や会社を作って法人、企業としての農業へとその形態を大きく変えていくことに繋がった。
その中で、多くの場合は水稲を選ぶものは居らず、遠隔地からの輸送が難しい野菜類を中心とした近郊農業へと移行していき、いまや列島において農家といえる個人、家族で行う営農者は、農業事業者のうちほんの一握りという状態になっているんだ。
農家解放とはよく言ったものだと思う。当時の農家は、伝統や家業として農地に縛られていた。
農地買い上げ令はそうしたシガラミから人々を解放し、悪い意味では伝統を潰してしまう事に繋がっている。
それはさておき
列島での稲作も、1993年の呂宋富士噴火によって呂宋に大きな被害が出た事で回帰の動きはあるが、高付加ブランド米が中心で、多くの農地を水田復帰させるには採算性が悪いとして、あまり進んでいないのが現状だ。
小麦は南大孤島の独壇場に近いが、讃岐ではうどん麦として地産地消の取り組みを行っているのは知っているだろう?
水産業でも、この頃には大きな変化が起きている。
蒸気船から平賀機関をはじめとする内燃機が普及し、遠洋漁業だけでなく近海漁にも機船が普及すると、数百年来の資源枯渇が如実に表れる様になったんだ。
とくに日高見以北は酷く、アイヌ回帰運動という漁獲制限によって自然と共生しようという考えが広まっていく事になった。北氷海で始まったこの運動が全日本へ広まり、代替漁獲を得るために養殖技術の研究が盛んになったのもこの頃からだった。
そのひとつが、讃岐の安戸池でのハマチ養殖の研究だったんだ。
今では日本各地で様々な魚介類の養殖がおこなわれ、天然資源の回復が報告される様にもなってきている。
少し早いが、今日はここまで。




