33時限目・第一次大戦と技術の発展
ほーい、授業の時間だぞー
前回はアメリカによる青島やメキシコへの侵攻についてだったな。
今回は戦時中の日本についてだ。
日本はロシアへの逆提案で第一次世界大戦に参戦する事になったが、ずっと寒凍軍を派遣し続ける訳にもいかなかった。
そこで交代が必要になるのだが、さすがに水野衆や本多衆を送る訳にもいかず、毛利家において高杉晋作が組織した奇兵隊を祖に持つ機兵隊を送ることにしたんだ。
奇兵隊は士分の者であれば職を問わずに隊士となれる仕組みで、憲法制定後の日本軍の軍制の基礎となった部隊なんだ。
今でも、徴兵対象は士分を対象にしているのは知っているな?
ここが外国と違う点だが、日本は貴族が神職、武士が政治や軍事を行うという体制を長らく敷いて来たんだ。
今でも基本は変わっていないが、世界の流れに合わせ、現在では投票権が士分以外にも与えられ、軍への志願も可能になった。
と言っても、やはり古くからの伝統が無くなった訳ではなく、陸軍は武士が担うものとされていて、海軍は南洋の海洋民族や旧水軍衆が担い手になっており、最大の海兵学校が南洋にあるのもそれが理由だ。
空軍が身分を問わず採用しているのは、新しい飛行機を扱う組織だからと言うのが大きいんだろう。
飛行機を制作した二宮忠八は、商家の出だったしな。
さて、軍種の話はそのくらいにして、奇兵隊の話だったな。
奇兵隊は、馬の扱いに長けた武士以外が多かった事もあり、比較的早くから木炭自動車を配備していた。
そうそう、21世紀現在も正規軍に騎兵隊が存在するのは日本とロシアだけだって知ってるか?
アレは寒凍という特殊な環境で戦うために特化された存在らしい。
それもまあ良いとして
木炭自動車が配備された奇兵隊は、牽引や運搬だけでなく、自動車そのものに砲を積んでしまえないかと考える様になっていったんだ。
実物が完成したのは1909年だったらしい。
そこから試行錯誤の末、現在見慣れた戦車の形になったのが、ちょうど1914年だった。
当時の騎兵は馬に乗る関係から機動力は高かったが防御力は無きに等しく、秋山元帥の様な臨機応変な運用が出来る人材でもなければ、その戦法もごく限られたものになっていたんだ。
それに対して自動車は装甲を持ち、自ら軽砲や機関銃を備えていたから騎兵と歩兵、両方の役割を兼ねることが出来た。
もちろん、騎兵の様な軽快な動きは出来なかったし、歩兵の様な面で制圧する事も出来なかったが、相互に補う事で役割を補完できるものに仕上がっていたんだ。
こうして、1915年には奇兵隊は騎兵の役割を担う戦車、歩兵を前線まで運ぶ装甲車、それらに追随できる自走化した砲兵によって構成された部隊へと改編され、名前を機兵隊と改め、世界初の機甲部隊が誕生する事になったんだ。
兵站を担う自動車こそ木炭自動車が存在したが、装甲車両には源内機関が採用されていた。
そう、源内が考案したエンジンだ。
欧米では、ディーゼルというドイツ人が広く特許を取った事からディーゼルエンジンと呼ばれている。
当時は、簡単に日本人や日本企業がヨーロッパやアメリカで特許取得が出来ない時代だったから、土器型戦艦の様な軍事的影響力が大きいものならいざ知らず、飛行機でさえ、二宮の事には触れずにアメリカのライト兄弟やフランスのデュモンの功績が長らく宣伝されていたほどだ。
そんな源内機関がいつ考案されたのかと言うと、1770年代の事だったらしい。
彼が南大孤島での探索の傍ら、海を渡って東インドを訪れた際、現地の人々が用いる圧気発火器に触れ、筒内で油やガスと言った燃料を燃やせば回転運動に変換できるんじゃないかと考えたらしい。
当時は全くの空想的なアイデアでしかなかったが、その割には精巧なスケッチを遺しているんだ。
その後、平賀鉱山がそのアイデアを蒸気機関から発展させる形で研究を続け、1880年、源内の死後100年目にしてとうとう実現させたんだ。
最も難しかったのは燃料を適切に筒内に送り込む噴射ポンプだったらしいが、その開発に成功した事で実現できたんだ。
今でも、平賀と言えばポンプ類の製造ではトップシェアを誇っているが、原点は源内機関の研究だったそうだ。
さて、機兵隊は1915年暮れに東部戦線へ派遣され、ドイツ軍の反攻作戦を跳ね返すだけでなく、反転攻勢でヴィスワ川まで戦線を押し上げる事にも貢献している。
この機兵隊を指揮したのが、機甲部隊の父として有名な田中義一大将だ。
ロシアは日本の支援もあってかなり優勢に戦争を進めることが出来ていた。
寒凍で日本軍と戦っていたことが活かされた形だな。
日本に感謝もしていたが、その強さは脅威以外の何物でもないから警戒もより強くなっていくんだが、それはお互い様だ。
ロシアの大動員力に警戒感を持った日本がそれ以後、寒凍軍の本格的な強化に乗り出すのは、第一次世界大戦でロシアとの共闘があったからと言うのだから皮肉なもんだ。
直接の共闘をしていないイギリスやフランスも、東部戦線でドイツ軍を拘引する日本軍の姿に驚異の目を向けてていたし、ユトランド沖海戦に参加したロシア北方艦隊の土器型戦艦のタフさにも驚愕している。
当時の戦艦は、遠距離での撃ち合いを考慮されていなかったから真上から砲弾が降って来て甲板や砲塔天井を貫いて来るなんて想像の埒外だったんだが、土器型は要塞の高所から撃ちおろされる要塞砲への対策として、甲板や砲塔天蓋装甲も厚めにしてあった。
それが、坂本商会の仲介でロシア北方艦隊へと配備されたガングート級戦艦のタフさに繋がっているんだ。
それだけでなく、イギリス、フランスは商船建造の余裕がなくなっていたから、かなりの数を日本に発注しているが、とくに1916年頃から引き渡された船は全て溶接構造になっている事にも驚いていた。
日本では伊賀七も通賢も、鉄と鉄の接合に鋲を使う事に納得していなかったから、溶接や鍛接の研究を行っていて、鉄鋼船が建造され始めた頃から試験的に溶接が使われ出していたんだが、本格的に広まったのは、第一次世界大戦で船舶需要がひっ迫してからだった。
国内需要すら膨大なところにヨーロッパから依頼が舞い込んだんだから、どれだけ短期間で大量に作れるかとなった時、溶接を採用するのが一番手っ取り早かったってのが理由だ。
ただまあ、粗製乱造のきらいがあって北氷海で何隻も沈没事故を起こして大問題になり、溶接技術の向上につながったって後日談まで付いて回る曰く付きの話になるんだが、それは技術の授業で教えてもらってくれ。
おっと、時間だな。




