29時限目・満州事変
おー、授業の時間だぞー
さて、前回まではアメリカとの戦争の話だったな。
4月1日に始まって9月20日に終わった。実際には、イギリスで行われた講和会議の結果12月12日にポーツマス条約が結ばれた時点までが戦争期間と言う事になる。
日本は戦争中、満州を北へと延びていた鉄道とその周辺にも展開していったんだが、アメリカが戦闘停止を宣言した事で9月に入ると各地で撤退していくことになった。
だが、その後に問題が起きたんだ。
開戦前まではアメリカ軍が少数ではあるが、主要な駅周辺に駐留していたんだが、戦争によって日本軍が排除してしまった。
日本はその状況を全く考慮せずに撤退するんだが、その後何が起きたと思う?
まあ、大陸がどういう所か理解していれば簡単だったな。
そう、治安が悪化してしまったんだ。
もともと治安があまりよろしくない地域にアメリカが入って傍若無人に暴れていたところに、その首領格が居なくなったんだから大変だ。
年を越して1906年になると事態はより深刻になっていき、日本が事実上統治する東部一帯を除いて、もはや清国ですら統制できない状態になっていたんだ。
そんな満州へと入って来たのが、ポーツマス条約で何も獲得できなかったロシアだった。
ロシアは日露戦争以降、満州へ介入する事は無かったんだが、何もしていなかった訳じゃない。
ロシアは東寒凍が手に入らない事を自覚し、その代わりに蒙古への介入を強めていったんだ。
当時の蒙古はロシアの脅威に対抗すると称して清が内蒙古へと漢人の入植を進め、蒙古人と対立するようになっていたのでそれを利用し、積極的に蒙古を支援し、ちゃっかりコサックもその運動に加わっていった。
1905年には外蒙古から内蒙古を窺う状態だったが、その東で起きたのが日米戦争だった。
その結果、満州を席巻しかけていたアメリカが急に居なくなり、アメリカに従っていた馬賊と反発していた馬賊の力関係が崩れ、騒乱が発生していた。
それでも日本と国境を接する黒河などは安定していたが、蒙古と接する西部はもはや無政府状態になっていた。
そこに目を付けたロシアは、治安維持を名目にコサック軍団を侵攻させたんだ。
蒙古方面から東へ、そして同時に内蒙古へと侵攻を開始したんだ。
この動きにイギリスやフランスが抗議を行ったが、ロシアが聞くはずもない。
さらに満州へと進んで、チチハルまでやって来た。
本来、ここで止まるという話を日本にしていたんだ。下手に満州全域へロシア軍が展開すれば、日本との戦争になるのが目に見えていたから、事前の根回しを忘れていなかった。
しかし、馬賊を率いる頭目の1人、張作霖が巧みな戦術でコサックを翻弄して東へと逃げ去ったそうだ。
それを追いかけるため、ロシア軍は綏化まで東進し、張作霖一味と交戦していた。
ここで、張作霖は南をロシア軍に抑えられたことで北へと逃げ出してしまった。
綏化から北とはどこかと言うと、黒河方面だ。
黒河は清の街だが、事実上、対岸の錦江湾の影響が大きい日本街と化していた。
当然だが、そこには公然と日本軍が駐留している。
1906年3月8日、張作霖は日本軍の巡回部隊によって誰何され、身元確認が行われている所へロシア軍がやって来てしまった。
当時の日本とロシアの関係は、明確な戦争状態ではないが常に小競り合いが続いていた。
徳川幕府以来、条約こそ結んで国境線が引かれたものの、寒凍は寒凍だった。
そこは近代国際法が通用する地ではなく、戦国時代の気風が支配する中世だったんだ。
そんな所で両国の軍隊が鉢合わせすればどうなるか、火を見るよりも明らかだった。
どちらからともなく発砲があり、交戦状態になったんだ。
それだけならいつもの小競り合いに過ぎなかったが、場所が場所だけに日本軍はすぐさま錦江湾へと援軍要請を行った。
その話は寒凍南部を預かる本多忠盛大将にまで届き、当然のように動員体制が敷かれることになった。
日露戦争からこれまで、当たり前のように越境事件が繰り返されていた結果、ロシアがチチハルで停止し、後のモンゴルの領土に留まるとは、寒凍軍の誰もが信じていなかったというのも大きかっただろう。
実際には、馬賊の頭目だった張作霖が引き起こした偶発的な事件だったんだが、寒凍軍の誰もがそうは考えなかった。
すぐさま軍が編成され、島津衆を率いる東郷平八郎がまず出撃していった。
ロシア側も、いつもの調子で日本軍を発見したから交戦してしまったものの、事態の重大さに気付いて撤退していく。
だが、ロシアにとって不幸だったのは、日米戦争でアメリカ軍の頭を押さえる大機動戦を演じた秋山元帥がどこに居るかを把握していなかった事だろう。
当時、馬賊の騒乱が海参崖に迫っていたことから、元帥は満州東部で馬賊討伐の指揮を執っていたんだ。
そんな彼が牡丹江でロシア軍侵攻と言う報を受け、綏化へと軍を向けたんだ。
元帥は部隊を纏め上げながら、まずハルビンを目指した。
ロシア軍も北から日本軍がやってきているから、南下して日本軍をやり過ごそうとハルビンを目指していたんだ。
こうして3月21日、ハルビン会戦が起きる事になった。
秋山元帥は北への偵察を欠かさず行っていたから、ロシア軍の接近を察知していたんだが、ロシア軍は北にばかり目がいっていて秋山元帥の軍に気付いていなかった。
こうして、ロシア軍にとっては二度目の遭遇戦がハルビン近傍で発生し、チチハルへと日本軍の満州侵攻を伝えることになった。
その報を聞いた蒙古侵攻軍司令官パーヴェル・レンネンカンプは全面交戦を決断し、コサック騎兵2万をチチハルから前進させ、肇州へと布陣し、秋山、東郷率いる日本軍との戦闘に至った。
後に肇州会戦と呼ばれるこの戦闘は、騎兵の筈の秋山隊が下馬して防御陣地を形成した事で膠着してしまった。
本格的な日本の増援を警戒したロシアは、本国に事態を知らせ交渉を行い4月26日に停戦が成立する事になった。
こうして、日露の衝突は終結したんだが、この事件の事を、後に満州事変と呼ぶようになったんだ。
満州事変の結果、モンゴルの領域をチチハル東方の湿原を国境として定めることになった。内蒙古は随分と漢人の浸食が進んでいたが、ロシアはイギリスやフランスとの協議でモンゴルの独立と内蒙古南部での国境策定を行い、清国抜きでモンゴル独立が決まり、1907年9月、モンゴル・ハーン国が建国されることになったんだ。
清はこの建国に反対したが、もはや覆すだけの力が無く、その醜態に激怒した勢力が清打倒へと動き始める事になってしまった。
おっと、時間だな。




