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28時限目・4月ウソ戦争顛末記

 はーい、授業の時間だー


 日本は突如アメリカから奇襲攻撃を受け、戦争する羽目になったと前回話したな。


 教科書には日米戦争と載っているが、4月1日に始まった事からエイプリールフールウォーなんてヨーロッパでは言われているんだ。


 エイプリルフールと言うのは、その日はウソを言っても良い日とされていて、各国で様々なウソが飛び交っている。

 その事から名付けられた名前だ。日本語で言うと4月ウソ戦争って事になる。


 確かに、開戦理由も講和交渉もウソみたいな話だったのだから、分からなくはないがな。


 この戦争で大きな役割を果たしたのは、土器型戦艦や浦前の岬(バンクーバー島)要塞だが、その目となったのは飛行機だった。


 何を当たり前なって思ったか?


 だが、時は1905年だ。飛行機が飛んでまだ7年しかたっていなかった。


 これだけ早く実用化できたのは、実は飛行機を飛ばした二宮忠八の功績と言うよりも、フライヤー伊賀七の功績と言って良いだろう。


 二宮忠八は、伊予国八幡浜の商家に産まれた四男だった。裕福な商家だったが、それでも四男だったので上の兄弟ほどではなかったらしい。

 まあ、当時は今以上に貧富の差が激しかったし、日本列島で、しかも四国と言えば久米式(流下)塩田が広がる瀬戸内は裕福だったが、そこから一歩離れた八幡浜では大きく違っていたんだ。


 そんな八幡浜の商家生まれ、しかも12歳の時に父親が病死してしまって商売も傾いたらしい。何とか盛り返そうとして内職に励み、忠八凧(たこ)というヒット商品を生み出したんだ。


 そうはいっても、所詮は凧に過ぎないから商圏は限られている。


 凧を作って何とか実家の立て直しに貢献したが、その時、空を悠々と舞うトンビを見て、飛行機を作る事を思い立ってしまったらしい。

 まずはゴム動力の模型、そして次は人力飛行機だ。


 ここまでならば八幡浜でも何とかなった。だが、彼が目指したのは動力によって自由に空を飛ぶ事だったんだ。


 そこで、彼は日本で最も進んだ動力機関を製造している江戸を目指した。1887年の事だったらしい。


 江戸へ向かった忠八は、そこで衝撃的な出会いをするんだ。


 何と、江戸ではすでにグライダーが飛んでいた。


 凧どころか安全に人を乗せて飛ぶ事の出来る滑空機がそこにはあったんだ。


 驚くしかなかっただろうな。


 日本でグライダーを考案したのは他でもない、フライヤー伊賀七だ。


 計算が得意だった彼は、鳥を見て空を飛ぶことを構想したらしい。


 もちろん実物を作って飛ばしているが、残念なことに最晩年の事だったので、数度の実験だけに終わってしまっていたんだ。


 それでも彼が興した江戸湾工房群へと飛行機製作が受け継がれ、秘法としてグライダーづくりが行われていた。


 それを知った忠八は、江戸で飛行機について学ぶことにしたんだ。


 こうして航空学を学んだ忠八は、現状では動力飛行が難しい事も知った。


 フライヤー伊賀七が動力飛行はしばらく無理と結論付けた19世紀半ば、ヨーロッパでもジョージ・ケイリーと言う人物が、動力飛行を行うには十分に軽量で推進力を持った動力を先に実現しないと無理という結論にたどり着いていた。


 アジアの伊賀七、欧州のケイリーは飛行機史を語る上では双璧だ。


 まず必要となるのは動力機関と知った忠八は、理想の動力を探し求めたんだ。


 当時の日本では木炭自動車が主流で、ガスエンジンは存在していた。


 すでにグロー式から点火プラグ式へと移行しており、それを載せることは可能だったが、鋳鉄製の重いエンジンと言う事で疑念があった。

 さらにその燃料が問題だったが、それは既にガソリンや灯油を燃料とすることも可能になっていたので、その点では解決が可能だった。

 こうして飛行機に乗せられるガソリン、ないし灯油エンジンを作ろうとしていた頃、かの坂本龍馬が面白いモノを持ち帰って来たんだ。


 彼は北極海横断に成功し、サンクトペテルブルグへとムルマンスク鉄道建設交渉のために向かったが、1890年に日本での協力者探しに一時帰国していた。

 その時持ち帰ったモノが、パルスジェットだったんだ。


 さすがに現物ではなく資料だったが、忠八はそれに飛びついた。


 だってそうだろう。重量物を使用せずに推進力を得ることが出来る夢のエンジンなんだぞ?これを使わない手は無いじゃないか。


 こうして、飛行機エンジンの開発に着手したが開発は難航してしまう。


 江戸湾岸の叡智をもってしても、その完成には7年を要するほどの難事だった。


 こうして完成したパルスジェットエンジンを備えた飛行機が完成し、1898年10月、霞ケ浦において世界初の動力飛行を成功させたんだ。

 機体の理論は飯塚伊賀七が60年も前に完成させていたものを用い、八幡浜で飛ばしたトンビ型を動力飛行機へと再設計し、エンジンは坂本龍馬が持ち帰ったパルスジェットの資料から忠八たちが独自に開発したものを取り付けた。


 その後、1903年には約1時間の滞空と自由操縦が可能となり、新し物好きの旧九鬼水軍がこれに注目して採用されることになったんだ。


 ただ、当時の機体は水上機や飛行艇じゃなかった。もちろん、今の空母みたいな考え方もまだなかった。


 どうしたかと言うと、巡洋艦の艦上から凧のように飛ばし、帰還時にはクレーンを利用した専用フックで引っ掛けて回収するという荒っぽい方法だった。


 まあ、この方法はその後も軽量機の運用方法として日本海軍で続けられ、今じゃドローン偵察機の運用法になっているんだ。


 陸軍も同時期に採用し、浦前の岬で偵察に利用され、迅速な指揮に役立っているのはよく知られているな。


 こうして、日本軍は偵察機として二宮飛行機を運用する事で、山の裏にある旅順港の様子や海の向こうの要塞を手に取る様に把握しながら砲撃することが出来たんだ。

 アメリカ軍は、上空を轟音を発しながら飛ぶ怪鳥の姿に恐怖していたらしいが、その正体を知るのはそれから何年も先の事だったらしい。

 そりゃ、アメリカのライト兄弟が飛ばした飛行機と似つかないまさに鳥の形をした飛行機だったもんな。


 ただ、日本はいきなりパルスジェットを採用した事で、ヨーロッパの飛行機の発展からは取り残されてしまった。

 ガソリンエンジンを用いる事で高度な旋回飛行が可能になったヨーロッパに対し、日本では速度こそ出せたが、全金属製の機体が開発されるまで、パルスジェットやそこから派生したラムジェットを用いた場合は速度が速すぎて機体が旋回に耐えられなかったんだ。

 せっかく先進的なエンジンをいち早く取り入れながら、機体の技術がそれに追いついていなかった。

 さらに機体が全金属製になると、エンジンがターボジェットになってしまって、パルスジェットは日陰者になってしまった。


 なんでも優秀なものさえ開発すれば良いって訳じゃないのはままならんものだよな。


 おっと、時間だ。

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― 新着の感想 ―
伊賀七の異名が更に増えたw
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ! 飛行船かと思ったらパルスジェットだった…な…何を言ってるのか(以下略
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