27時限目・ポーツマス条約
ほーい、授業だー
1900年、20世紀は騒乱の中で幕を開けた。
この義和団の乱に際し、アメリカメディアは盛んに日本の蛮行を伝えている。
曰く、街中で人々に斬り掛かって首を撥ねている。
曰く、騒乱者の中から無造作に選び出した者を見せ物の様になぶり殺している。
曰く、殺害対象は騒乱者だけでなく、市民の女子供にまで及んでいる。
イエロージャーナリズムと化したアメリカメディアは、全米に向けてその様に報じていたんだ。
まあ、事実なんだがな。
この時は引き摺り出され処刑されたのは、救朝恨日を唱えて暴れまわった連中だ。
女子供までと仰々しく報じているが、暴れまわっていたのがなぜ、大人の男だけって断定出来るんだ?
アメリカメディアは、日本を貶める為にきわめて効果的な切り取り報道を行い、過剰な脚色や捏造に血道を上げていた。
現在日本のジャーナリズム学において、きわめて典型的な教材として使われているほどに悪質だったんだ。
アメリカは華夷秩序という漢思想をまったく調べもしなかったし、その思想をより煮詰めた選民意識が朝鮮貴族に染み込んでいたなんて、微塵も興味を持たなかった。
目の前にある素材を如何に加工し、ストーリーをでっち上げるかしか考えていなかったと言って間違いない。
そうやって、全米に反日機運を高める事に専念していたんだ。
それは単にメディアの単独犯ではなく、アメリカ東海岸における共通の目的意識があっての事だ。
それは、いかにして大陸利権から日本という脅威を取り除くかって目的だ。
日本からすれば、はた迷惑にも程がある話だろ?
日本にとっての脅威は、浦前の岬を狙い、あまつさえ寒凍にすら入り込もうと野心剥き出しのアメリカだったのにな。
アメリカは、全米に対する反日機運醸成と並行して遼東半島への軍備増強を露骨なまでに行っていたんだ。
その姿は、日本だけでなくヨーロッパ諸国をも警戒させるに十分なものだった。
当時のアメリカを表す言葉に、孤立主義というのがある。
これだけ聞くと、まるで引き篭もりの様なイメージを持つが、実はまるで逆だ。
孤立主義というのは、ここと定めた地域を自国領域と考え、国際法や条約によらず、国内、自国領域として振る舞う最悪の帝国主義の事だ。
やっている事は大陸王朝の冊封体制と変わらない。
自分の土地でもないのに、貢いだ相手を「庇護してやる」訳だ。
ただし、宗主たる自身の考えが何より優先する。
鄭氏は、この考え方を300年掛けて脱漢していたんだ。
だが、そんな思想はアメリカへと感染してしまった。
ヨーロッパ諸国の大陸的な思想を嫌い、そこから抜け出したハズのアメリカは、ヨーロッパの思想より感染力が強い漢思想に触れ、解脱してしまったんだ。
あまりに親和性が高かったんだろうな。
結果、日本という西夷を討つ事は当然の使命と錯覚していた。
だが、日本がその事に気付くのは、まだまだ後の事だった。
当時はロシアに代わる脅威として対処する事を選んだんだ。
こうして、目に見えて始まったのが建艦競争だった。
日本は要塞型巡洋艦を多数建造していたが、アメリカがこれに対抗して巡洋艦の大量建造を始める。
さらに、日本が土器型戦艦の建造を始めると、同じ様に12インチ砲を8門備えたサウスカロライナ級戦艦の建造を開始したんだ。
当時、日本の造船能力はイギリスと大差なく、資金力も南大孤島の資源や寒凍のインフラ整備という下地があり、何より砂糖を大陸へと輸出して得た膨大な利益があった。
1903年、日本は一挙に3隻の土器型戦艦を完成させ、世界の度肝を抜いたのは有名だ。
一夜にしてイギリスが築き上げた戦艦戦力が旧式化し、日本が世界のトップへと躍り出た。
それでも日本は止まることなく、翌年にはさらに3隻を完成させる勢いだった。
これに危機感を抱いたのは、他ならぬアメリカだ。
サウスカロライナ級戦艦4隻を建造していたが、近く完成するのは2隻だけ。残る2隻は1年以上先の話だった。
すでに日本にド級戦艦の数で抜かれており、数年あればもはや追い付けない可能性すら考えられたんだ。
この時アメリカでは、10年後には大陸利権を失い、20年後には西海岸へと日本が攻め込んで来ると本気で論じられていた。
それを止めるには、今すぐ戦端を開いて日本を倒すしかない。
正気とは思えない決断が密かに行われ、1905年4月1日、アメリカ軍は旅順への配備を表向きの理由としてサウスカロライナ級戦艦2隻を含む12隻もの大艦隊で南シナ海から高山国へと接近し、突如高雄へと艦砲射撃を加えてくる。
完全な奇襲となったこの攻撃で、高雄の港は壊滅し、悠々北上したアメリカ艦隊はさらに基隆にも打撃を与えて旅順へと向かったんだ。
この奇襲攻撃で、旧高山水軍の拠点は数年に渡り機能不全に陥る事になってしまった。
高山国奇襲攻撃の後、アメリカは正式に日本へと宣戦布告を行って来たんだ。
そして、それと同時に浦前の岬上陸を開始した。
こうして、日本を二正面戦争に陥らせる事で混乱を誘って来たんだ。
ただ、あまりに日本を甘く見すぎていたと言ってよかったし、ヨーロッパ諸国への根回しすらやっていなかった。
バンクーバーの眼前で始まった戦争に対し、カナダはアメリカへと抗議を行っている。
何の相談もなく始まったため、バンクーバーの海運は完全に止まり、カナダ西部の経済に打撃を与える事が明白だったからだ。
さらにアメリカの誤算は続く。
浦前の岬に建設された要塞は、目に見える以上に厄介で、何より数万という犠牲を直接シアトルの市民が目の当たりにしてしまったのだから。
浦前の岬には塹壕、地雷、機雷、機関銃という、当時考えられるすべての障害が存在していたんだ。
先の戦争から30年が経過していたのに、刀や槍で突っ込むクビカリのイメージから脱却出来ていなかった。
先の戦いを経験した生き残りは、イメージに騙されるなと警告したが、実際に死体の山を目にするまで、当事者たちは信じなかった。
結果は半月で投入兵力の半数、7万人が戦傷死する凄惨な事態が出現してしまったんだ。
20世紀を迎えたアメリカに、眼前でこんな犠牲を受け入れる民意は存在しなかった。
開戦ひと月を待たずに、西海岸戦線は作戦中止が決定したんだ。
警戒した反攻はいつになってもやって来ず、シアトル市民は東海岸の無能のために犠牲となった若者たちを悼み、反戦運動を始めるに至った。
遠く離れた満州の惨劇は、アメリカ東海岸にとって受け入れ難いニュースをもたらす。
日本は本来、土器型のうち3隻を浦前の岬防衛にまわす予定だったが、アメリカの奇襲によって列島や南大孤島で開戦を迎え、旅順砲撃に集中運用する事にしたんだ。
6月12日、旅順砲撃が実施され、アメリカアジア艦隊はすべて鉄くずへと変貌してしまう。
1万2千人にのぼる犠牲を出したアメリカ艦隊は、山に遮られて一発も反撃出来ずにだ。
これで日本は、土器型の運用思想に自信を持つ事になる。
満州のアメリカ陸軍の悲劇は生易しいものではなかった。
朝鮮の軍がなぜ二線級か?
寒凍軍はユーラシア最強のコサック騎兵としょっちゅう小競り合いをしていたバケモノの集まりだからだ。
木曽馬を源流とする寒凍馬は、背丈こそ20世紀アメリカの馬より小さいが、劣るのはそれだけだったんだ。
アメリカ陸軍が気付いた時には満州に日本騎兵が展開しており、何の手立てすらなくアメリカ本土から艦隊の来援を祈るしかなかった。
せめてもの反撃と遼東半島から南下を試みたが、寒凍軍にとっての二線級とは、一般的に精鋭部隊を意味していた。
新義州に攻め込んだアメリカ軍は、半数に満たない朝鮮軍を撃ち崩せず、遼東半島で籠城戦をするしかなくなったアメリカ陸軍だったが、嘲笑った軽砲は機関銃の射程外から狙撃するための歩兵火器だった。
防衛陣地を的確に潰しに来る日本軍に震えながら後退を続け、遼東半島西部に追い詰められた9月20日、アメリカ陸軍は降伏を選択したんだ。
シアトルで起こった反戦運動もあって、アメリカ政府はアジア駐留軍が降伏した3日後、戦争の停止を宣言するに至る。
イギリス、フランス、ロシアの調停で開かれたポーツマス和平会議は、アメリカ代表団の野蛮な態度にヨーロッパ全体が閉口する事になった。
まさか、負けたアメリカが日本に賠償を求めるなんて、流石に人種差別が当たり前だったヨーロッパですら非常識だったんだ。
結局、イギリスの圧力で賠償を取り下げたアメリカは、イギリス、フランス、ロシアによる「提案」に従って、鉄道権益の東進及び北進撤回、天津線をイギリスへ、北京線をフランスへ渡す事に合意し、浦前の岬への不可侵と対岸オリンピック半島、さらに遼東半島の非武装化を定めたポーツマス条約に調印する事になった。
日本にとっては浦前の岬の安全以外、何も得ることのない戦争となったが、アメリカへの砂糖、羊毛の関税廃止をチャッカリ勝ち取る事には成功したんだ。
おっと、もう時間だな。




