26時限目・義和団の乱
おー、授業の時間だー
さて、19世紀末頃のアジアについて見てきたわけだが、分かるだろう?
すべてが清からいかに利益を吸い取るかに向かっている。
ここに、さらなる国が登場してくる。
ドイツだ。
アメリカによる遼東半島獲得を見たドイツは、自身も有利な条件を得ようと山東半島へと乗り込んで来た。
こうして主要な国がすべて清へと揃ったその時、山東半島では反欧米を掲げた宗教集団が現れたんだ。
強固な神力によって刃すら通さない身体になるって説いていたらしい。
どっかで聞いた事あるよな?まるで伝説の無手格闘術や身体強化魔法みたいだろ?
その名を義和拳という。疑惑ありげだよな。
その集団がまず標的にしたのは、ちょうど山東に居たドイツ人だった。
ドイツ人宣教師を襲撃し、外国人排斥を訴えたんだ。
そのスローガンを扶清滅洋という。
ここが太平天国との違いだ。
太平天国は、自らが清に替わる事を掲げて清から領土を奪っていったのだが、義和拳は清を盛り立てる事を訴えたんだ。
義和拳は清に替わる新たな国を打ち建てようとすれば、清から攻撃を受けて潰される事を太平天国から学んだんだな。
だが、その行動の結果はどうであったか?
ドイツは事件を好機と、狙っていた山東に租借地を得ることになり軍港建設を喜々として行ったんだ。
こうして建設されたのが青島だ。
義和拳は扶清滅洋を唱えながら、やっている事は売国に過ぎないんだが、やっている連中はまるでその事に気付いたいなかった。
この義和拳は山東に留まらず、欧米への不満、さらに、当時清で布教が盛んなキリスト教への不満と反発によって盛り上がりを見せていた。
まだこの頃は、日本からすれば他人事だったんだ。
そもそも、日本人は大陸に関わる事を避けていたからな。
援明に際し、裏切られた事を忘れていない。
今では、これは鄭氏や織田政権が大陸へ目を向けない様に意図して拡めた考えだったのではないかって見解が主流になっているが、結果として、日本の繁栄は大陸へ進出しなかった事が大きいのだから間違いではなかったんだよ。
この嫌漢思想によって、徳川幕府も寒凍から南下しようとしなかった。
だが、嫌漢思想を持っているからと言って、大陸の文化や事跡を否定した訳じゃない。
徳川幕府の思想的支柱に孫子の兵法がある。今でも日本軍の戦略、戦術の基底となっている。
だからしっかり見ていたんだ。嫌漢とは言っているが、大陸を研究する研漢と言う方が正しいのかも知れん。
さて、義和拳の騒乱がなぜ起こったのか?そこから見ていこうか。
それは、突き詰めるとキリスト教布教に際し、その柱となる部分を外に任せてしまった事。それに尽きると分析されている。
さらに、キリスト教徒であれば清国人であっても欧米の側と見なされ、国法の例外として振る舞えた。
こんな事、日本じゃあり得ないよな。
日本じゃ、キリスト教徒であれイスラム教徒であれ、神の下僕として天皇の下に平等だから、国法を犯すことは許されない。
そんなモノは常識以前の話なんだ。
が、大陸では清国人自身も国法を犯す方便に利用していた。
確かに不平等条約や強引な布教、欧米の高圧的で差別にあふれた態度。それらがあったのは確かだが、結局のところ、中華文化の悪いところが湧き出した結果でもあったんだ。
外国人が清を席巻している。確かに悪い事だ。
だが、それ以上に外国人を後ろ盾に横暴を働く漢人が横行した。
これでは元凶を絶たないとコイツらが止まらないって考えるのは、彼らの文化からすれば当然の帰結だった。
そんな不満を抱えた義和拳信者が、山東からさらに天津や都の北京にまで溢れかえる様になり、個人や小集団による行動から巨大な義和団として外国へと牙を剥いたのが、義和団の乱の始まりだった。
まず狙われたのが都に在った清軍司令官であり、なぜか日本の外交官であった。
気が付いた時には救朝恨日が紛れ込んでいたんだ。
とくに驚きはない。
清にとって、中華王朝の範囲は朝貢を行う冊封国を含むんだから、そこにはインドシナの阮朝や朝鮮まで含むものになっていた。
つまり、義和拳の敵からより大きい義和団に変化した際、朝鮮から追い出されたり井伊家に貢物として清に朝貢された朝鮮貴族が加わっていた訳だ。
そういう連中が義和団のスローガンに間借りし、日本への反攻を行おうとしていたんだ。
こうして騒乱が北京を覆うと、清はその対処に困ってしまった。
そして、最高権力者たる西太后は、義和団の余勢を駆って諸外国へ宣戦布告の道を選んでしまう。
冷静に考えれば、彼女の贅沢を支え、満足させていた相手を攻撃するってどうなんだ?って思うんだが、義和拳に共鳴しちゃってたんだろうな。
もちろん、華夷秩序の考えから朝鮮貴族にも同情的だったんだろう。宣戦布告の相手に日本も含めてしまったんだから。
清国からの宣戦布告に対し、欧米7カ国は嬉々として出兵した。
もっとも派兵したのは、遼東半島に師団規模で駐留するアメリカだった。
日本は予想外の事態に唖然とするしかなかった。
もちろん、これまで教えられてきた嫌漢思想を再確認する機会になったんだがな。
こうしてアメリカ軍を主力とする派遣軍が出兵したが、派遣軍が北京へやって来るまで、領事館などを攻撃され防衛戦を戦っている司令塔となっていたのは、柴五郎大将だった。当時は中佐として清国へ駐在武官として派遣されていたんだ。
芝大将は樺太生まれで、幕府の家臣として研漢の教えを学んでいた。
そんな彼は、清への赴任にあたって北京の地理を調べ、現地に入ってからは物見を行う者たちをも抱えていたんだ。
列国の外交官や軍人の中でも飛び抜けて北京に精通していた柴大将がリーダーとなって、派遣軍の到着まで籠城戦を闘っていたのはよく知られているな。
こうして、諸外国へと宣戦布告を行った事で追い詰められた清は、北京へと派遣軍が到着して攻撃を始めるとあっさり講和に動くんだ。
まあ今さらではあるが、これが中華文化だ。
そして、後押しし、さらに仲間として外国と戦っていた義和団鎮圧を軍に命じる。
信じられるか?考えに賛同して戦っていた戦友を簡単に切り捨て、刃を向けるんだぞ?
こうして、義和団は外国軍と、昨日まで戦友だった清軍によって鎮圧されたんだ。
当然だが、そこには日本軍の姿もあった。
すでに島津家家臣の村田という技官が開発した村田歩兵銃が生産されていたが、当時北京へ出兵したのは朝鮮にあった部隊で、幕府軍系部隊の中では二線級とされ、リボルバーライフルを装備していた。
もちろん、ライフルこそ旧式だが、軽砲を曳くのは馬ではなく、木炭自動車だった。
部隊の装備は当時の欧米より進んでいたくらいなんだ。
だが、この時そんな日本軍を見たアメリカは、バカにしていた。
アメリカにおいてリボルバーライフルというのは、拳銃弾を使う田舎の銃という認識だったんだ。実物の久米銃は欧米のライフルと威力の変わらない弾を使ってたんだがな。
砲の牽引に木炭自動車を使っているのも、荷馬が貧弱だからと嘲笑していた。
確かに、この時少数の日本軍騎兵が居たが、アメリカ軍の馬より遥かに小さくポニーに見えたらしい。
そんな日本軍を貶すアメリカは、義和団の乱を理由に満州から天津、北京への鉄道敷設権を得て、さらに鉄道の東進も認めさせたんだ。
東進って事は、日本が得ていた海参崖から奥山口を結ぶ寒凍鉄道とバッティングする。
もはや日本と争う姿勢を隠そうとすらしなかった。
さあ、ようやくだな。
っと、今日はここまでみたいだ。




