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24時限目・ド級の時代

 ほーい、授業の時間だー


 前回は、1886年にアメリカが大陸北部で租借地と鉄道経営権を得た話をしたな。


 その頃の日本だが、すでに大陸北部で鉄道延伸をやっていたんだ。


 その一つが、奥山口(ハバロフスク)から南下し、海参崖(ウラジオストク)へ至る路線だ。これは北氷海(オホーツク)が冬季には凍結するので三丹(尼湊)への海運が出来ない事から代替線として考えられたんだ。

 構想されたのは1860年代の話で、1874年には清から鉄道敷設権を得て、海参崖に日本人町を設けることも認められている。いわゆる南線条約だ。


 こうして、アメリカが遼東半島で暴れている頃、日本が期せずして日本海防衛を充実させていたんだが、旅順と満州での鉄道権益を得たアメリカはこれがとてもご不満だったらしい。


 それはそれとして、日本はこの当時ようやく国が再統一したばかりだったが、それは悪いことではなかったんだ。

 とくに、1874年に王政復古が行われ、ナポレオン侵攻以来の不安定な政治を挽回しようとしていたスペインは日本に接近していたんだ。

 その対応に当たっていたのは高山国(台湾)鎮守府だった。


 1886年まではおもに高山国鎮守府独自に行える経済的な支援や鎮南将軍と連携した貿易が主だった。

 意外な話だが、鎮南将軍はその支配地域は広大だが、そこには強力な外国が存在せず、今の感覚から見れば哨戒艇や巡視船レベルの軽武装な艦船が大半だったんだ。


 それに対して徳川幕府はロシアコサックを相手として戦うために、常に最新鋭の武器を求めていたし、鎮北将軍は相手がアメリカなので重武装な艦船を常に欲していたんだ。


 そんな訳で、鎮南将軍の水軍が帝国海軍南洋艦隊となった時、日英戦争時からあまり大規模な変化がなく、ただ船齢による艦船の更新が行われているだけだった。

 たしかに、東天竺(ポリネシア)の東にフランスがやって来て、ドイツもちょっかいを掛けてはいたが、それらは小勢力でしかなかったから、重大な脅威にはなっていなかった。

 それに、南大孤島(オーストラリア)くらいしか大規模な修繕が可能な港もなく、強力な軍艦の運用には適していないという事情もあったんだ。

 高山水軍は近代化されていたが、規模は列島の九鬼水軍と同程度と、規模は大したことはなかった。


 対して鎮北水軍の近代化は著しく、高山水軍の水準と同等な艦船が大半だった。


 海軍の統一で最も問題となったのは、旧鎮南水軍の艦船だった。


 これを一気に強化しようと計画されたのが、要塞型巡洋艦計画だったんだ。


 おお!っておもうだろう?


 浦前の岬(バンクーバー島)戦争の後、目に見える防備を固めることを考えた鎮北将軍は、そこに大要塞の建設を意図したんだ。


 要塞の設計をしたのは大村益次郎だ。他に適任が居ない程の人物だったからな。

 そして、その陣地の配置を計算したのが小野友五郎。鎮北において右に出る者がいない天才と言われる二人の設計した要塞は、今に残る優秀なものとなったのは、皆も知っているだろう?


 その要塞の射撃法を艦砲に利用しようと考えた榎本武揚や赤松公則が開発したのが、要塞型戦艦だった。


 ただ、戦艦建造には至らずに居たんだが、南洋艦隊強化に際して引っ張り出して来たんだな。


 といっても、当時の戦艦はエンジンが非力だから足が遅く、広大な海を走り回る南洋艦隊に配備するには向かなかった。そこで、より軽い巡洋艦として採用する事にしたんだ。


 ただ、当時大陸にヨーロッパ各国の艦隊が来ていたから、それらと戦う事も考え、10インチ砲を積む大型艦と、8インチ砲を積む中型艦が整備されることになった。


 どちらも、小野友五郎が編み出した公算射撃法に基づいて一斉射撃できるように同一口径の砲を同時に6門以上撃てるように配置されていた。 

 戦艦じゃないから贅沢に複数の砲塔を配置できないから、当時世界で最初の背負い式配置を採用する事になったんだ。

 しかも、砲塔を回転したままどの方向でも装填が可能な揚弾装置を採用したのも最初だった。


 なんで戦艦を作っていないんだって?


 だから、戦艦は脚が遅くて、当時は移動要塞としての価値しかなかったからなんだ。


 当時の日本で戦艦を有していたのは、元高山国水軍の西方艦隊と九鬼水軍の内海艦隊のふたつだけなんだ。

 高山国(台湾)や日本列島という、外国軍が攻めて来た時に守るべき重要な場所へ配していたんだ。


 それ以外の場所には足が速く、どこへでも駆けつけやすい巡洋艦を配備するとしていた。

 それでも戦艦に近い強力な艦を配そうと、10インチ、8インチという、当時開発されていた最新の強力な艦砲を載せることにしたんだ。


 こうして開発された要塞型は、10インチ砲搭載の新高型が12隻、8インチ搭載の逆季浦型が20隻という大量建造だった。


 そして、当時カリブ海でアメリカと対峙していたスペインにもこの要塞型を売ろうと考えたんだ。


 当時のスペインは南米植民地を次々と失い、キューバでも独立戦争が勃発していたんだ。この頃は第一次キューバ独立戦争が休戦となっていたが、アメリカの影響を受けていたので日本がそれを利用し、スペインの戦力強化の手助けをしようとしていたんだ。


 スペインもこの話に乗り気だったんだが、自国で開発している24センチ砲を載せたいと言って話が遅延してしまい、さらにその砲が欠陥だった事で更に完成が伸び、結局、完成したのは1898年2月の事だった。


 運がよかったのか悪かったのか、完成した3隻をスペインへ引き渡したんだが、まずはマニラに配備するという事で日本で訓練が行われていたんだ。

 知っての通り、この年の4月21日にスペインはアメリカの卑劣な扇動によって戦争に引きずり込まれてしまい、5月1日には旅順に居たアメリカアジア艦隊がマニラを襲撃したんだ。


 結果はアメリカの敗北に終わり、スペイン艦隊は旅順へと進撃したものの、高い山と狭い湾口という悪条件から攻撃できずに封鎖する事しか出来なかった。


 この時、スペインが文句を言わずに日本と同じ兵装で6隻全ての引き渡しに応じていれば、前年までにすべてが完成していて、キューバで7月に行われた海戦でも勝てたかもしれないんだが、カリブ海にだってスペイン本国で建造した新鋭艦が居て、それで負けたんだから仕方がない。

 

 アジアではさらにグアムにもアメリカ軍が向かったが、そこは南洋艦隊が展開する海域で、2隻の要塞型に張付かれたアメリカ艦隊はすごすごと逃げ帰るしかなかった。

 逃げ帰った旅順で、スペイン艦隊に捕捉されて撃沈されたんだがな。


 こうして、キューバ独立に絡んでアメリカが引き起こした米西戦争はカリブ海ではアメリカが勝利し、アジアではスペインが勝利する展開となり、講和が行われたパリでその講和条件で対立する事になったんだ。

 アメリカはマニラ総督府が管理するアジアのスペイン領の割譲も要求したが、スペインが拒否した事で紛糾してしまった。

 しかもパリ条約が締結された直後、6隻の巡洋艦代金としてスペインのアジア植民地が日本へと引渡されたのだから、アメリカは怒ってしまうんだ。

 マニラ湾では日本製の巡洋艦に負け、旅順を封鎖されたんだから。


 この戦争の後、アメリカはさらに旅順へアジア艦隊強化を行って来るんだ。


 日本はスペインによる旅順攻撃を見て、稜線越え射撃ができる艦砲が必要だと考え、土器型戦艦の建造を行った。


 世界的には土器型は戦艦という括りになっているが、正式には要塞破壊艦と言うんだ。日本海軍の命名規則からいって、河川名から名付けられた土器型は戦艦ではなく巡洋艦なんだけどな。


 だから、戦艦とは一線を画す思想で開発され、旅順を稜線越えで狙えるように45度の大角度で撃てる12インチ砲8門を備え、要塞砲にも耐える重装甲を持ち、迅速に移動できるように当時最新鋭のタービン機関を備えた要塞型巡洋艦の一種と考えていたんだ。

 世界がその登場に驚くことになったが、当の日本は世界が何に驚いているのか理解するのが遅れたのは、そう言う事情があったからだ。


 おっと、もう時間だな。

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― 新着の感想 ―
この世界線の「ド」はドレッドノートではなく土器の「ド」ですね。 最初は土器山のことかと思いましたが、よく考えるとあれは土器山(かわらけやま)で「ド」にならないので、四国の土器川ですね。
スペインと良好な関係なら7mmモーゼル貰ってそのまま採用とかないのかな……チリに輸出するのに7×57mmモーゼル弾バージョンの三式重機関銃作って売ったりしてるしね
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