23時限目・神聖日本帝国憲法発布
授業の時間だぞー
さて、前回は浦前の岬戦争だったな。
浦前の岬戦争に勝った日本だったが、実は頭を抱えていた。
なにせ、三公会議は存在するが、国として一貫性のある運営が出来ていなかったからだ。
5月の政変までは、尾張織田政権が中央政府を担っていたが、それを打倒した三公は、織田政権に替わる中央政府を未だ設けていなかった。
事前に問題が分かっていたロシアとの戦争こそ滞りなく行えたが、朝鮮編入は鎮北将軍には寝耳に水だったし、浦前の岬戦争を高山国鎮守府が知ったのは、鎮北将軍が動いた後だった。
たしかに、まだ電信網すら完全には整備されていない時代だ。数ヶ月の違いは誤差と言えなくもないが、北アメリカでの事に高山国鎮守府は関与していなかったし、中身すら知らなかった。
それは南大孤島や常春諸島について鎮北将軍が何ら関与していないのも同じ。
三公は利害調整や外交判断は話し合っていたが、それぞれの専任案件へは不干渉とされていた。
しかし、浦前の岬戦争はその不味さを知らせる出来事となった。
浦前の岬戦争は、アメリカが日本を舐めきって、簡単に浦前の岬を占領出来ると考え侵攻を始めたから守り切れたが、本気を出して海軍まで動員していたら間に合わなかった。
仮に奪還するにも、鎮北水軍だけでは兵力が足りないのは明らかで、高山国鎮守府や鎮南将軍と連携しないと作戦実施は難しかった。
当時、南北戦争を見てその懸念はあったのだが、そこに確信を持たせたのは、浦前の岬戦争直後に起きた普仏戦争だった。
普仏戦争は、アジア太平洋で活動著しいフランスと、領邦を纏め上げ、成長著しいプロイセンとの直接対決だ。
19世紀に入り、ヨーロッパ情勢を見るようになっていた日本では、プロイセンは参考になる国だったんだ。
プロイセンは元々ひとりの皇帝が治めていた国だったが、それが分裂し、また纏まりかけていたからだ。
その纏め上げた結果が、普仏戦争で示された。
太平洋を股にかける広大な領土を持ち、技術力もヨーロッパ諸国に劣らず、軍事力は太平洋においてなら誰にも負けないだけのモノを有している。
それが日本なのだが、当時は総指揮をとっていた尾張織田家を欠き、三公が利害調整しながら運営している状態だった。
もし、アメリカが本格的に戦争を挑んできたら、最悪各個撃破されるかも知れない。
そうした懸念から、日本をひとつの国にしようと動き始めたんだ。
そこで参考とされたのは、フランスやプロイセンではなくイギリスだった。
フランスやプロイセンは確かに強いという認識はあったが、日本の実情にはそぐわなかった。
その点、イギリスなら参考になった。
そうして作られた日本の国家像が、神聖帝国である。
頂きには天皇が座し、宗教を統括している。
そして、実務は三公をはじめとする鎮守府や幕府が執り行う。
基本的には何ら変わらない体制なのだが、尾張織田政権に替わる中央政体として列侯議会と士族会議を設ける事にしたんだ。
当時、日本で政治に関わっていたのは大名や将軍といった候、実務行政を担っていたのが武士階級である士族だった。
イギリスの貴族院と庶民院を参考にして考えられたこの体制をスタートするために発布されたのが、神聖日本帝国憲法だった。
1860年頃には、新体制を盤石にするために新たな政体が模索され始めていたが、それから20年以上掛かってようやく纏めあげる事ができたんだ。
そして、憲法が発布されたのが1886年。
発布に至るまで各地で士族による騒乱事件なども起きたが、概ね賛同を得てスタートを切ることが出来た。
ここで軍制も約300年ぶりに改められ、天皇の下に神聖帝国軍としてひとつに纏まる事になる。
軍権が拠り所だった徳川幕府が当初反対していたが、陸軍の大半は寒凍にあって徳川家の力が弱まる訳ではなかったので、最終的に納得する。
今でも徳川軍閥なんて言い方があるのは、この時の名残だ。
それまで分かれていた水軍も、指揮系統が統合され帝国海軍としてひとつになった。
南大孤島などの南半球はどうするんだって話になったが、そこは内政を武田家が担う事で話が付いたんだ。
こうして、日本はひとつの国でありながら5つの地域に分かれた連邦制が採られる事になる。
だから、連邦ごとに教育内容にも差があるんだ。
今受けている日本列島の内容と、南半球や高山国、呂宋だとまるで違って来る。
南半球だと歴史の中心が南大孤島や武田家に関するものになるから、興味があるなら調べてみると良い。
そんな、歴史背景や文化が違う5つの地域がひとつに纏まれているのは、全ての宗教が天皇に帰結するからだ。
別々の容姿、文化、言語を持っていても、信じる神は天皇だ。
それを言ったら、ブルネイはどうなんだって話になるんだがな。
アジアの独立国の中にも回教寺派に属している国はある、結局は公用語として日本語を使っているかどうかで分ける事になるんだろう。
こうして、新体制が正式にスタートした1886年、またまたアメリカがヤラカシてくれた。
コロンビア号事件と米清戦争だ。
日本が国の体制構築をやっている頃、大陸ではヨーロッパ諸国が清を貪っていた。
すでに上海を租借しているイギリスは言うに及ばず、プロイセン改めドイツ帝国も接触を始めていたが、もっともガッツイていたのがアメリカだ。
そして1885年末、コロンビア号という商船が遼東湾を航行している時、清から臨検を受ける。
そこは完全な内海で、外国船が勝手に測量してよい海域ではなかったんだ。清にとっては。
清の官憲はコロンビア号に乗り込み、測量していた記録の提出を求めて来た。
当然の様に船長は拒否し、乱闘になって負傷したらしい。
らしいと言うのは、この時乗り込んだ清の官憲は銃殺されて海へ投げ込まれているので、客観的事実を知りようがなく、すべては船長の証言に頼るしかない。
この事件を受け、アメリカアジア艦隊は旅順を占領、賠償として租借を要求したんだ。
渋る清に対し、天津に上陸したアメリカ軍が北京へ進軍するに至り、清は渋々要求を呑んで旅順はアメリカが租借する事になった。
アメリカはアジアでの領土をまったく諦めていなかったんだな。
それでは飽き足らず、遼東半島からさらに北まで鉄道敷設と経営権を寄越せと強請る。
いわゆる遼東干渉だ。
またぞろ渋る清に業を煮やしたアメリカは、軍を遼東半島全域へ展開しようとして清軍と対立し、清との戦争となった。
アメリカ海軍は清海軍主力が籠る威海衛を襲撃し、配備されたばかりの定遠級戦艦2隻を大破させ、降伏に追い込んだ。
頼みの綱だった2隻があえなく損傷した事で、清はアメリカの要求を呑んで遼東半島や満州における鉄道敷設権を認める遼東条約を結び、戦争は終結した。
アメリカの狙いが何処にあるか明らかだったが、まだ日本は動けない。
下手に動いてロシアまで介入してはたまらないからな。
おっと、時間だ。




