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21時限目・坂本商会設立

 ほーい、授業だぞー


 さて、前回は朝鮮立て直しの話だったな。


 同じ頃、寒凍(シベリア)転封となった者たちは泥色川(アムール)の各地で開拓に励んでいた。

 そんな中からひとりの青年が現れた。


 土佐出身の坂本龍馬だ。


 今でも坂本商会と言えば有名だから知っているな。


 彼は三丹(尼港)で鉄道建設を訴えたんだ。


 当時の日本は鉄道よりも自動車が主流だった。


 ヨーロッパだと、蒸気機関が普及すると鉄道建設が各国で始まるのだが、日本ではそうならなかったんだ。


 理由は簡単で、土地の所有者が入り混じる場所に固定物を設置して単一の組織が維持、管理する事に忌避感があったからだ。


 だから、江戸運河においても牽引車道は作れても、レールは敷かれなかった。


 当然と言えば当然だが、それでは輸送量が鉄道に劣るのは間違いない。


 日本で最初の鉄道は、意外と早くに建設されているし、当時の総延長も長かったんだ。


 それがあったのは、南大孤島(オーストラリア)西海岸の平賀鉱山が操業する鉱山から港までだ。


 南大孤島はデカいから、鉱石輸送のために1840年代には鉄道建設が始まっていた。


 その利便性から干河洲(パース)でも建設されて旅客輸送にも使われていたんだが、北半球には普及しなかった。


 日本列島や高山国(台湾)の場合、長距離輸送なら船の方が便利だったというのもある。

 山や川の多い地形というのもあって、あえて内陸同士を繋がなくとも船で海や川を運べば良いって考えだったんだな。

 近距離なら大規模街道が普及していたから、馬貸しなど運送業の利権にもなっていた。


 だが、泥色川沿いはそんな考えでやっていける土地じゃない。

 冬は川が凍るので船は使えず、ソリくらいしか頼れる乗り物が存在しない環境だった。

 ただ、冬は極寒だが積雪は列島や日高見(北海道)の豪雪地帯ほどではない。


 そんな事から季節を問わずに居住するなら鉄道が必要だと訴えたんだ。


 初めは相手にされなかったが、龍馬の魅力なのか次第に賛同者が増え、北条家や樺太伊達家をも動かしてしまった。


 こうして1861年には寒凍鉄道の建設が始まり、先ずは中流域の中核都市として毛利家が開拓に励む奥山口(ハバロフスク)まで建設された。


 今では泥色川沿いだけでなく、内陸部にまで延伸されているが、これは未だに寒凍(シベリア)が自動車に厳しい地域だからなんだ。

 

 鉄道建設が始まると、それまで他人事と距離を置いていた毛利家や島津家も興味を示し、1863年には薩長同盟と呼ばれる共同事業体まで立ち上げて協力が始まった。


 そこからの建設スピードは早く、奥山口には1865年に到達し、さらに北へと延伸されて黒河対岸の島津領錦江湾には、1869年に到達している。

 夏季には、船で資材を運んで複数地点から建設されていったのも大きかっただろう。

 日本初の鋼鉄橋梁が建設されたのも、この寒凍鉄道だ。


 日本が寒凍で鉄道建設を始めると、それまで強硬に満州割譲を清に要求していたロシアが大人しくなった。

 坂本龍馬や薩長同盟にその気は一切なかったが、ロシアは日露戦争の悪夢を思い出したんだろうな。

 鉄道輸送でさらなる大軍を送り込まれたら、ロシア軍には為す術がない。


 寒凍鉄道建設は、ロシアのシベリア鉄道建設を刺激したが、あちらは資金と技術の面で建設は遅延し、一時は事故で停滞していたほどだった。

 最終的に、イルクーツクまで完成したのは1900年になってからだった。計画はチタまで延伸するものだったが、ついぞ建設されずに今に至っている。

 チタまで延伸すれば、寒凍鉄道や大陸の鉄道と連結する道が見えて来るのだが、連結する事で弱点になるのを恐れているんだろうな。


 鉄道建設の音頭を取った龍馬だったが、建設そのものにはあまり関わっていない。どちらかと言うと、建設に従事する人々の側面支援をやっているんだ。

 悪く言えば、鉄道建設で生まれた商売を独占したとも言える。


 当時、普及が始まった缶詰の製造と輸送に手を出し、いまの坂本商会の基礎を築いたと言っていい。

 当時の缶詰は、実は蓋をハンダで留めるものが主流だったんだ。ハンダには鉛が入っていてとても危険なんだが、それしか方法が無かった。


 と、思われているんだが、実はそうではなかった。


 讃岐の発明家、久米通賢が缶詰に触れ、もっと良い方法はないかと頭を捻っていたんだな。


 当時は一つ一つ手作業でハンダ付けしていく必要があり、とても効率が悪かった。

 その工程をもっと楽に出来ないかと考えていた時に、折り紙から思い付いたのが巻締法だったんだ。


 予め缶と蓋にツバを持たせておいて、重なり合ったツバ部分を内側へと巻き絞めていく方法だ。


 考案した機械はそこそこ簡単な構造をしているのだが、その機械に合った缶と蓋を製造しないと製品としては完成しないという問題を抱えていた。

 ちなみに、飯塚伊賀七はわずかの差で缶詰に触れる機会が無かったとされている。


 伊賀七は1836年に亡くなるが、日本に缶詰が紹介されたのが1835年頃とされ、1841年まで生きた通賢には触れる機会があったという訳だ。

 もし伊賀七が缶詰に触れていたならば、同じ様に加工法を思い付き、製缶まで一貫したシステムを作り上げていたかもしれない。

 だが、通賢には江戸前工業地帯と言うバックグラウンドは無く、大規模な製缶にまでは至らず、しばらくこのアイデアは埋もれてしまう事になった。


 それを掘り起こしたのが、龍馬だったんだ。


 たまたま船を購入し、わざわざ讃岐の金毘羅宮まで参拝に行った。その帰りに立ち寄った先で目にしたのが、細々と缶詰製造をやっていた加藤吉蔵商店という小さな店だった。

 そこでは通賢の考案した製缶法と巻締法を用い、缶詰を製造していた。さすがにゼロから缶詰製造は出来ないと考えていた龍馬は、その小さな店を仲間に引き込むことにしたんだ。


 そうして、龍馬に振り回されるがままに事業を拡大した加藤吉蔵商店が、通賢の考えた製缶法を広め、今の缶詰、冷凍食品大手へと急成長を遂げる基礎となっていった。

  そう、缶詰はチンネッド通賢によって今の形が作られているんだ。龍馬が加藤吉蔵商店に巡り合わなければ、缶詰の量産はもっと遅れていたかもしれない。

 そうそう、缶切りを発明したのも通賢なのは有名な話だよな。


 さて、龍馬は缶詰製造のパートナーを得て、寒凍向けの販売を手始めに、様々な商品を仕入れては鉄道建設に従事する労働者に売っていた。

 そして、鉄道完成後は鉄道で奥山口や錦江湾へと商品を送り届ける様になっていった。それはもちろん、軍需物資も含むわけで、今の坂本商会の原型が整っていった訳だな。


 こうして、対外的な事件なくしばらくは歩んでいたんだが、やはりそう長く平和は続かなかった。


 おっと、時間だ。 

>加藤吉蔵商店


冷凍うどんで有名な、アレですよ・・・



>チンネッド


この世界の日本で普及しているのは、米語ではなくブリテッシュなので、缶詰の名称もブリティッシュとなっております。

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