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20時限目・井伊直弼の立て直し

 はいはい、授業だぞー


 さて、前回は朝鮮編入までやったな。


 今日はその続きだ。


 朝鮮を編入した日本は、その管理を幕府へ任せた。


 いちおう、日本の北だからって区分けだな。


 そして、朝鮮に入ったのは井伊直弼だ。


 井伊家は日高見(北海道)の十勝にあった徳川直参の家で、幕府が札幌に入る時に付き従い、1780年頃に北条家と入れ替わるかたちで十勝に入ったんだ。

 北条家は樺太に渡り、新たに開拓を行う事になったのは有名な話だな。


 朝鮮へ入る頃の井伊家は、牧羊に加えて酪農も盛んだった。

 今でも日高見チーズは有名だろ?


 井伊家はその生みの親なんだ。


 そんな、内政能力が買われて朝鮮立て直しを任された井伊直弼は、まず清との関係をどうするか悩んだ。

 朝鮮は日本が編入したとは言え、寒凍(シベリア)とは扱いが異なる。

 

 この時転封したのが高山国(台湾)鎮守府の者であったなら、清とは距離を置いただろうと言われている。


 だが、徳川幕府は良くも悪くも保守的で安定を望む気風があった。


 え?


 水野衆や本多衆もそうかって?


 アレは自然に根ざしてしまったナニカだよ。幕府に逆らう事は無いが、殺れと言われたらイルクーツク殲滅だってやるだろうな。


 井伊家は良くも悪くも徳川幕府の模範的な家臣だった。


 彼は清との関係を現状維持とし、形式的に冊封の継続を了承したんだ。


 まあ、それが後に「人攫いの井伊直弼」なんて呼ばれるのは、さすがに不名誉な話だが、その内容は至って常識的なものなんだ。


 攘夷保守が叫ぶ様な、朝鮮で目に付いた者を片っ端から清へ売りつけたなんてのは、名誉毀損モノの捏造に過ぎない。


 そんなモンを信じるのは、攘夷主義者や救朝恨日(きゅうちょうはんにち)運動やってる活動家くらいだろう。


 そもそも、奴隷を要求したのは清であり、井伊直弼が率先して人攫いを行い売却したわけではない。

 

 清は旧体制の仕来りを引き継げと要求して来たが、井伊直弼はそれを拒否している。

 交渉の席には、いつか見た顔も並んでいたから清も強くは言わず、形式的に冊封を行うなら体面も保てると考えていたんだ。


 ああ、そうだ。


 大陸文化とは、いかに自分たちの体面が保たれたかに重きが置かれ、中身は二の次って場合が往々にしてある訳で、それが予期しないトラブルを引き起こしたりもするんだ。


 こんな面倒臭い相手だって事を理解した上で、授業を聞いて欲しい。


 井伊直弼は清の体面を保つ上で朝貢の形式は残す事に合意した。


 その貢ぎ物のひとつが、人間だったんだ。


 分かるか?


 井伊直弼が始めた商売なんかではなく、そもそも李氏朝鮮が清と結んでいた約定を最低限履行したら、その中には奴隷取引が含まれていた。


 そう言う話なんだ。


 そして、この取引を利用したのは事実だ。


 この頃の朝鮮は各地で一揆は起きるわ、盗賊は日常茶飯だわ、挙句、賄賂は年貢の一部だった。


 そうした事件や騒動を取り締まり、罪人を奴隷代わりに清へと引き渡していたんだ。

 つまり、井伊直弼がやっていたのは犯罪者の国外追放に過ぎなかったんだな。


 だが、それをよく思わない朝鮮の貴族階級である両班が、1862年2月に起こした井伊直弼暗殺未遂事件を辛酉(しんゆう)事件と呼ぶ。


 井伊直弼は政庁を釜山に置いたんだが、そこは真っ先に田畑が整えられ、日本式農法が採り入れられた。

 2年目の収穫となった1861年秋は史上稀に見る大豊作となったんだが、それは他所の貴族階級から見れば怪奇現象であり、嫉妬はもちろん、排除すべき対象と見られていた。


 あれ?って思ったか?


 聡い奴が居たもんだ。


 そう、1862年なら、壬戌(じんじゅつ)になるんだが、当時の朝鮮は漢暦(旧暦)を使用していたから、2月上旬はまだ年末だったんだ。


 だから、辛酉って訳だな。


 怪奇現象の大本である恨を断とうとした者たちは、井伊直弼が登庁する時間を狙った。


 だが、彼らは全く理解できない事態に遭遇してしまうんだ。


 当時、日本ではすでに蒸気自動車が普及していた。


 大名その人ともなれば、もはや駕籠(かご)や馬に乗るなんて事はなく、蒸気自動車に乗る事がステータスだった。

 そんな中でも井伊直弼はさらに先進的な事に、木炭自動車に乗っていた。


 完成させたのは別人だが、発明したのはスモーキー伊賀七だ。なに?名前が違うって?何を言ってるんだ?飯塚伊賀七こと、スモーキー伊賀七だよ。蒸気機関で有名な人物じゃないか。

 

 彼は蒸気機関では飽き足らず、内燃機関開発を志していたことは話したよな?


 それが完成したのが1856年の事だったんだが、伊賀七はある事実に頭を悩ませていたんだ。


 東関東ガス田からはガスが採れるんだが、どうやって自動車に貯蔵するか悩んでいた。蒸気機関の燃料としても使えるが、如何せん、貯蔵容量が少なすぎたんだ。今の様な高圧充填なんて技術は無かったからな。


 そこで試行錯誤をする中で、炭焼き時に煙突から出る煙に火がつくことを発見した。


 そう、不完全燃焼式のボイラーを搭載して燃料タンク代わりにしたんだ。そのガスを利用して自動車を走らせようとしたんだが、冷却や潤滑がうまくいかずに頓挫してしまってた。

 開発はとん挫したが、蒸気自動車をベースとした車自体は完成していたから、ガスエンジンの実用化と共に普及が始まっていたんだ。

 

 井伊直弼は朝鮮へ向かう際、江戸に立ち寄ってその最新式の木炭自動車を購入して釜山へ持ち込んだって訳だ。


 そんな、パタパタと爆音を響かせ、白煙を吐いて迫りくる異様な怪物に襲撃者は狂騒状態になってしまったんだ。

 まだこの頃はマフラーなんて気の利いた機器なんて着いていないから、そうとう煩かったんだろうな。

 それに、襲撃自体が思い付きだったのも悪かったんだ。事前に下見をしていた僅かな者以外が役に立たなくなり、動けたわずか2人での襲撃は、騒ぎ出した他メンバーたちのせいで事前に注目を集めてあえなく取り押さえられてしまったんだ。


 その取り調べから、多くの不平貴族が検挙される事件へと発展していった。これを清の元号を使って同治の大獄なんて呼び方をしたりするんだが、別に大したことじゃない。

 この事件に連座して、朝鮮各地の貴族と名乗る者たちが多数検挙され、数年分の貢ぎ物を確保する事になったというだけの話だ。


 こうして、わずか数年の間に次から次へと貴族が拘束された事で朝鮮の風通しも良くなり、井伊直弼はその手法を10年にわたって維持し、清への貢ぎ物の確保に利用していたんだな。

 確かに、見方によっては人攫いってのも間違いじゃないのかも知れん・・・


 おっと、もう時間か。

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― 新着の感想 ―
後世で井伊直弼は腕利きの人間狩り集団を率いていたとか事実無根の噂話を流されたり、そっから発展してマンハントニンジャ(忍者ではない)クランの頂点に立つマンハントブギョーとして創作物に登場しそう。
美男美女ではなく媚男醜男ばかり贈られた清は怒らなかったのだろうか…?
井伊直弼はこの世界線では大老じゃなくて地方官吏だけど暗殺されなくて良かったね。 史実の伊藤博文の暗殺もそうだけど、朝鮮の近代化においては両班ってのはホントに邪魔だなぁと思うね。
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