38.男/溢れた涙
「ネモフィラは我が子爵家の家紋。父は文官なので武を象徴するモチーフを選ばなかった。そのネモフィラが弟が居た町に咲いていると聞いて、もしや弟か姪っ子が生きているのかと思った。なので直ぐに町を訪れた。しかしあったのは弟と嫁と姪っ子の墓だった。隣人の老夫婦から話を聞いて、弟が戦争で死んだ事と、姪っ子が孤児となって貴国に渡り、孤児院で育って侯爵の邸で働いていた事、それから町に戻って侯爵の子を生んだ事、そしてまもなく病気で死んだ事を知った」
「そして改葬されたんですね」
「弟に頼まれていた姪っ子を、今更ながら引き取ろうと思ってね。隣人の老夫婦が定期的に墓を見舞ってくれていたらしいが、それも数年したら老夫婦も寿命が来る。そのまま墓が荒廃して行くのなら我が家門で引き取って弔おうと。まあ、掘り起こしたらなかなかの朽ち具合だったけれどね。嫁に関しては亡くなって三十年近く経ってたから」
確かにあの老女が亡くなったら墓の手入れをする人は居なくなるかもしれない。老女の夫はもう亡くなったし、老女もあと何年生きられるか分からない。
「その墓を参らせて欲しいのですが」
「ああ構わないよ。領館の近くだから先に寄ろうか。先に領館に行ってから墓に向かうと暮れてしまうかもしれないから」
そして暫く馬車を走らせ子爵家の墓地に到着した。
子爵家の墓の周りは、ガブリエルの故郷の町のネモフィラ畑以上のネモフィラが咲いていた。丘一面に咲くネモフィラが、空に同化してしまいそうな位丘の上まで広がっていた。
「これは……凄いですね」
「ははっ。あの町のネモフィラも綺麗だけど、やっぱ本家はウチだからね」
「町のネモフィラは母親が亡くなった時にガブリエルと父親が植えたのが始まりで、勝手に増えて行ったのだと聞きました。これは毎年増やしているのですか?」
「ええ。父が我が家紋なのだから盛大に植えようと言って増やしました。ネモフィラの花言葉はご存知で?」
「確か、“どこでも成功”」
「そうです。父は文官として生きたが、私は商売人として生きている。父からは将来の道を決められる事は無かった。自身で選んでその道で成功出来る様にと、私達子ども以外にもこれからの子孫や家門の人間皆に向けての願いが込められている」
ネモフィラの丘を登って行くと墓があった。まだ歴史の浅い家門なだけあり、墓の数は少ない。子爵に教えられ、ガブリエルと両親の墓の前にしゃがみ込んで手を合わせ、祈りを捧げた。目を閉じるとネモフィラのほのかな甘い香りを感じた。ここは本当に美しい。俺はガブリエルを救えなかったが、今、こうして両親と共にネモフィラに囲まれて幸せに感じているのではないかと思えた。
ここに来たのは俺の我が儘だ。ガブリエルは望んではいない事だったかもしれない。人生を変えられてしまった俺に祈りを捧げられても、何も嬉しく無いかもしれない。
ガブリエルの復讐は、俺のものにはならないと言う事で達成された。しかも一生だ。五年どころでは無かった。今も変わらずガブリエルを愛しているのに、決して手が届かない。
俺は一生手に入れられない女の面影を追って、俺の命を狙う者ばかりの土地まで来てしまった。
「……何を、祈った?」
ゆっくりと目を開け顔を上げた時、子爵に聞かれた。
「……すまない、と」
「こんな隣国の子爵領までわざわざ墓参りに来てくれた人を死人が責める事は無いだろう」
寧ろ来てくれなくて良いとすら思われていそうだが。
「子爵がどこまでご存知か分からないが……ガブリエルの父親を殺したのは私です。ガブリエルは私に復讐する為に我が邸の使用人になったのです」
「え……それは……知らなかった。あの町に攻め入ったのは侯爵の率いる軍であった事は知っていたが、貴殿が直接弟を殺したとは……。それに、ガブリエルが、復讐を……?」
「ええ。でもガブリエルは出来なかった。父親の形見の短剣を持たせてやっても、私を刺すことが出来なかったんです。そして私はガブリエルを愛した。仇の男を殺せなかった上に、邸を出てその男の子どもを生んだのです。私は迎えに行くと言いながら行けずに、死なせてしまった。私は彼女の人生を狂わせた張本人ですから……」
「成る程……」
「領都からここまで安全に来られたのは子爵の配慮のお陰です。しかしそれも私が貴方の弟を殺した事を知らなかったからでしょう。子爵もガブリエルと同様に私を憎む感情を持ったのではないでしょうか?」
「そう、か……」
子爵は言葉を噛みしめるように呟き、黙ると周囲を見渡した。周囲にはネモフィラだけだ。子爵の護衛の者も離れた所にいるので、ここには子爵と私しかいない。
子爵は暫くネモフィラを眺めて再び口を開いた。
「……あの町で老夫婦からガブリエルが一人で侯爵の子を生んだと聞いた時、貴族と平民だから結婚出来なかったのだろうと勝手に思った。ガブリエルが死んでから子どもは侯爵が引き取ったと聞いたし、ガブリエルが貴方の邸で働いていた時も良くして貰ったらしいとも聞いたから、戦争で敵にさえならなければ侯爵は真摯な人間なのだろうと思って、リューゲン伯爵子息から手紙が来た時も会ってみたいと思ったし、領都でも助けたいと思った」
子爵は大きく息を吸った。夕刻が近付き丘は風が出て来た。ネモフィラの香りが風に運ばれてやってくるのを、きっと思いっ切り吸い込んだ事だろう。
「侯爵への恨みは無いよ」
「え……」
「戦争は多くの人の命を奪う。死人も国が勝てば名誉ある死と称えられ、国が負ければ恨みが残るもの。勝つか負けるかで大きく違う。我が国がもし勝利していたら、それは反対に起こっていた事でしょうな。弟は騎士を目指した。弟も奪った命は当然あるし、指導者として教えた者がさらに人の命を奪った事だろう」
確かに剣を持つと決めたのだから、恨まれる事は覚悟の上だった。斬らなければ自身が斬られる。生き残る為に切り続けなければならない。我が国にも失った命は勿論あるのだ。
「侯爵はネモフィラのもう一つの花言葉をご存知か?」
「もう一つの花言葉……?」
「“あなたを許す”」
あなたを、許す……?
知らない花言葉だった。
時々吹く強い風が鼻の奥にネモフィラの香りを届ける。香りが鼻腔を刺激し、何か優しいモノに包まれている様な感覚になる。
「誰かを恨み続けても囚われ過ぎて自身の足元をすくわれる。どこかで気持ちに見切りをつけたり決着をつける事で次に大きく進む事が出来る。許す事も必要な事だ。許す事によって自身が救われる事もある」
「……そう、ですか……」
「ガブリエルも侯爵を許していたのではないか?」
「それは、さすがに……」
「確かに復讐を誓う程恨んだかもしれないが、許していたと思う」
「そうでしょうか……」
「私の父が子爵位を賜り、私達子に家紋入りの短剣をくれた。父と同じ道を進まなくても良い、自身で選んだ道で成功出来る様にと願いを込めて。そして末の弟は騎士の道を選んだ。そして辺境伯軍に入軍する事が出来た。そんな中、訓練中に怪我を負って騎士を続ける事が出来なくなった。それで騎士としての功績を積み名誉を得る為の手段を失い、田舎の町で子ども達に剣術を教える事を始めた。その怪我を負わせた騎士を恨んでいるかと聞いた事があるが、『恨んでいない』と言っていた。『俺はフィルマス子爵家の人間だから、ネモフィラに誓い許した』のだと。父から短剣を渡された時にもう一つの花言葉も聞かされていたから、許そうと思ったのだろう」
「しかしガブリエルはネモフィラの花名も覚えていなかった位です。花言葉を覚えていたとは思えないのですが……」
「まあ、確かに覚えていたかどうかは分からない。けれど、花言葉は聞いていた筈だ。その時私も居たから覚えている」
「その時に、居た……?」
「ガブリエルには一度だけ会った事があって、まだ弟の嫁が生きていた時だ。嫁の病気が進行していると聞いて見舞いにあの町に行った。弟と嫁は、弟が怪我をした時婚約中だった。怪我をして騎士を辞めなければならなくなり、弟は謝って結婚しても養ってやれないから婚約も解消して良いと言ったらしい。けれど嫁はそのまま結婚する道を選んだ。結婚してからも苦労はあったみたいだった。弟は剣を教えたが平民の子が殆どだったからそんなに儲かりはしなかった。会いに行った時も嫁の治療費を捻出するのに苦労している様だった。だから嫁に弟を恨んで無いのか聞いたんだ。そしたら『それ、何度も聞かれるんです』と答えたんだ。どうやら弟は結婚してからも何度も謝って何度も恨んでいないかと聞いていたらしい。その度に『恨んで無い』と答えていた。だから言葉で伝えるだけでなく、庭にネモフィラを植えて“あなたを許す”と言う証明を見せていたそうだ。勿論、剣術の指導者としての成功も願っていたらしいが。その話を当時五歳位ではあったけれどガブリエルも聞いていた。どういう意味かと嫁に聞いていたな。嫁は花瓶に差されたネモフィラを指差しながら『この花は花言葉が二つあるの。一つは“どこでも成功”。そしてもう一つは“あなたを許す”。悔しい事があった時に無理に許せとは言わないけれど、怒りの感情にばかりに支配されないで。許す事も大切な勇気』と教えていた」
ガブリエルはその母の言葉を覚えていたのだろうか。覚えていなかったから俺に復讐しに来たのではないのだろうか。それとも覚えていたけれどとても許せなかったから復讐を選んだのだろうか。
「三年前にあの町を訪れた際、昔見た時よりも庭のネモフィラが増えていた。老夫婦の話ではガブリエルが大切に育てていたと。それにガブリエルは亡くなる直前まで貴国と共和国との戦争を気にしていたとも聞いた。それは侯爵を心配していたからこそだろう。ガブリエルの母親の様に、ネモフィラを育てる事で侯爵へのメッセージとガブリエル自身の決意を表していたのではないだろうか」
……本当だろうか。
あくまでもフィルマス子爵の憶測だ。
でも、本当に俺を許してくれていたのだろうか。
それならガブリエルは俺が迎えに行くと言った事を信じていたかもしれない。迎えに行ったら『あなたを許す』と言ったかもしれない。言葉に出来なくてもネモフィラで伝えようとしてくれていたのかもしれない。
そうだ。俺は五年間愛し続けた証拠として、ガブリエルを迎えに行くと言ったんだ。ガブリエルは俺が他の令嬢と結婚するだろうと、絶対に愛し続けられないと思っていた。でも、どこかで俺が本当に迎えに来るかもしれないと信じる気持ちもあったのではないだろうか。
ガブリエルは確かに俺を『愛してしまった』と言っていたのだから。
俺はガブリエルの心が欲しいと望み、その言葉に心臓を掴まれ、望みが叶って喜んだんだ。忘れもしない、控え目な彼女が感情をぶつけてくれた、あの雪の、ほんの一時。あの時のその言葉こそが、真実ではないだろうか。
「……ガブリエルは、凄い女だな。戦争の英雄に涙を流させる事が出来るらしい」
子爵の言う通り、涙が溢れ止まりそうになかった。ガブリエルが死んだと聞き、アイリーンと初めて会って、アイリーンを抱き締めたあの時以来の涙だった。
これは悲しみの涙では無い。喜びの涙でも無かった。
ただ、愛おしい気持ちが涙として溢れたのだ。




