第二章 21
21
シャワーのお湯が
皮膚を流れてその感覚をはっきりとさせていく
ああ——自分は今、確かに存在している
それは久利にとって、束の間の安心——きっと
このシャワーを止めたら
自分はまた、世界との境界を躍起になって探さなくてはならなくなる
深井兄妹は、いい人たちだ
自分を見つけてくれた現岡さんも、いい人だった
しかし
自分は彼らと関わってもいいのだろうかと
漠然とした大きな不安が内側から膨らんでいく
それはすぐに自分の肉体の境界にまで達して
皮膚という皮膚を食い尽くしていきそうな気がしてくる
その時
自分はいったい、どうなっているだろうか
——本当は
ここにいてはいけないのだと、分かっている
すぐにでもここを出て、誰もいないところに行って
きっと——
消えてしまうべきなのだ
しかし
甘えてしまう
誰も、人間は自らの輪郭を知らずになど生きていけるはずもないと
久利は自らを正当化する
現岡さんは消えかけた自分の輪郭を見つけてくれ
深井兄妹は消えてしまった輪郭部分を与えてくれようとしている
だから
少しなら——
少しだけなら、ここにいてもいいじゃないかと
久利は自分に言い聞かせる
肌に、触れる
お湯が流れていく、物質としての私の境界
そこに触れられるということが
とても嬉しかった
まだ——まだ、自分は存在しているし、存在してもいいのだと
そう、思える
シャワーを、止める
急に温度が下がって寒くなり
久利は
急いで体を拭く
タオルが、体に当たり
その接触が——かすかに、自分という存在の意味をおぼろげに揺らしてくる
集中して、その触覚を捉えようとする
何か——何か思い出せそうな……
だが
そんな気がするだけで
何も思い出せないし、何も掴めない
体を拭き終わり
久利は用意してもらった服に着替える
その感触は
明らかに自分ではないものの肌触りで
だけど
今はそれも、少しだけ心地良いと思えた
廊下に出て、部屋へと向かう
その、途中で
ギターの音が聴こえて、たぶん希月さんだと思い
立ち止まる
どこか
夕陽に照らされた麦畑の真ん中に通った一本の道を
裸足で歩いているような、そんな感触
足裏に冷たい土が触れ
さわさわと揺れる麦の穂が腕に触れ
とぼとぼと
あてもなく歩いている
それは——
延々と続く道のりのように思え
久利は、途方に暮れる
ギターが止まる
家中がしんと静まり
その、沈黙に体中の皮膚がぴりぴりとざわめき
暗い穴のような口が内部からやってきて
少しずつ、皮膚を食べていく——消えていく、境界
久利はしゃがみこむ
恐い——ただ、恐い
でも
声が出ない
助けも呼べず、騒ぐこともできず
うずくまり、まだ残っている皮膚の感触を必死に守ろうとする
「何してるの?」
声がした
顔を上げると
着替えた希織が立っていて
その、凛と構えた表情に
内部からやってきた口が、すっと引き返していく
「す、すみません
急に、なんだか、恐くなってしまって」
「夜も、寝られなかったらいつでも起こしてもらってかまわないから」
「流石にそれは迷惑ですよ
たぶん、大丈夫です」
「無理されても困るのよ
せっかくここまで来てもらってるのに」
何も言えず、久利は黙る
でも
少しだけなら、わがままを言ってもいいような気がした
今は、ただ、「ありがとうございます」と礼だけ言い
ゆっくりと、立ち上がる
「本かCDならたくさんあるから
暇つぶししたかったら声かけて」
「あ、それなら——」
何か、聴きたいと思った
希月のギターの音を思い出し
自分には手の届かない何かかもしれないとも思い
だけれど
それに憧れているうちは
自分の境界や存在のことを忘れて
束の間、安心できるような気がした
希織に音楽が聴きたいとお願いして
「じゃあ適当に後で部屋に持っていくから」
と言われて、少しだけ力が抜けた
まだ、何も思い出せない——だけれど
もしかしたら何とかなるかもしれないと
ちょっとだけ、そう思った




