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第二章 16

自分、という存在が分からない

名前は——久利正太郎

それ以外のことは分からない

ただ

手で触れるものの感触を通して

おそらく、自分は一人の人間なのだ——と

かろうじて意識することができる

だが

気を抜くと世界に溶けてしまいそうになる

いったい何が起こっているのか分からない

なぜ、自分がここにいるのか

ここはどこなのか、今はいつなのか——

正太郎は、ともかく自分の体を、抱きしめるようにして触る

大丈夫、まだ自分はここに存在している

無くなってはいない——無くなってはいないが

これからどうしていいか分からない

そして

ただひたすらに、恐かった

何に怯えているのかは分からない

世界のような気もするし、自分自身に、のような気もする

声を上げたい

思い切り大声を上げて、自分の感触を確かめたい

だが、今はうずくまるので精一杯

震えて、固まって、怯えて——

自分を保つために、動くことができない

今、捕まえているこの触感、これを手放すと

もう戻れない気がする


そこに

声を掛けられた

頭を上げると制服を着た男子が立っていて

見つめると後ずさりされたが

すぐに手を伸ばしてきてくれた

求めるように、その手を掴む

雨に濡れた感触、でも、そこにある確かな輪郭は

互いが違う人間であることを証明してくれる


「何も、憶えていないんです

 名前しか、分かりません

 久利正太郎と言います

 何か、ご存知ですか」


声が、喉から出る度に

少しだけ自分を感じることができる


「いえ、俺には分からないです

 とりあえず、警察にでも行きますか」


警察——の、言葉に、正太郎は掴んだ手を離して尻もちをついてしまう

固くて巨大な何かが体を押し潰していくような感覚


「ご、ごめんなさい

 け、警察は、恐いんです

 なぜか分かりません

 とても、とても恐いんです」


男子の顔を見ることもできず

正太郎は再び塞ぎ込んで頭を触りながらうずくまる

恐い恐い恐い恐い——とにかく

この頭は自分のもの

髪の毛の一本一本の感触と、少しでこぼこした頭蓋骨の感触

このなかに自分がある、自分がいる、存在している——


「持ち物とか、何かないですか」


男子が、声を掛けてくる

だが今は顔を上げることもできず

正太郎はただ首を横に振る

怪しまれているだろう

それは分かる

いや自分でもおかしいと思う

よくこんな人間に声を掛けてくれたと心底そう思う

正太郎は固くてざらざらしたコンクリートの地面を触り

地球があって、その上に本当に小さく自分がいるのだと考える

だが、小さくてもそれは存在だ

大丈夫、大丈夫、大丈夫——まだ自分は溶けていない、消えていない、無くなっていない


「困ったなあ

 ちょっと待ってくださいね

 頼れる先輩がいるんで、相談してみます」


どこかに行くのかと不安になり

正太郎は顔を上げる——すると

男子はポケットから何かを取り出して、それを電話のように使い始めた


「な、何ですかそれは」

「え、何って携帯電話ですよ」

「電話なんですか

 はじめて見ました」


男子の目が、止まる

触れたい、触れたい——その、ケイタイ電話というものを触りたい

どんな感触だろうか

それは自分の輪郭を、どれくらいはっきりさせてくれるだろうか


「あ、現岡です

 元折さん、ちょっと相談があるんですけど、いいですか」


現岡と名乗るその男子が、本当に話し始める

携帯電話と呼ばれるものから

かすかに誰かの声が聞こえてくる

現岡は状況を説明してくれて

少し間を置いて

険しい顔をして——それでも


「とても怯えられていて——言葉にできないですけど

 なんか、違うなって、思うんですよ」


そう、言ってくれた

だが、その後すぐ


「あ、切られた」


と、言われた


「やはり、断られたんですね」


失意——煙を触っているような感触

上げた顔は地面の固さを求めて下がっていく——しかし


「もうちょっと時間ください

 何とかなりそうなんです」


現岡の皮膚を求めるように

正太郎はすぐに顔を上げる

笑って、くれた

雨合羽の下に隠れている現岡の顔が

はっきりと分かるくらいに笑っていて

思わず

正太郎は雨合羽の袖を掴む

無機質で、冷たくて、濡れていて、でも

その感触は

地面よりももっとはっきりと、正太郎の輪郭を境界付けてくれた

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