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第二章 9

隣にいる郁葉から

絶え間なく温かさが放射され

世界のあらゆるものから

緩やかに温かさが伝わってくる

それらの熱が

諒たちの部室に集約される

屋上廊下の端にぽつんとある小さな部屋——

軽音楽部へのぞんざいな態度の象徴のように

最も人気の少ない場所にある、倉庫だった部屋

だが

そんな扱いすらも諒には温かく思え

いつも

部室のドアの熱量を丁寧に感じ取りながら

ゆっくりとノブを回す


「やあ、お疲れさま」


今日もクラシックギターを弾きながら

二年の先輩、深井希月が挨拶をしてくれる

それは、ふわふわとした温かさ

冷たさのようでもありながら

諒の熱が奪われることはなく、常に平衡する温度——

挨拶を返そうとすると


「ちょっと、やめてよ!」


妹の、深井希織の声がかぶさってきた

凛とした温度感

部活ではキーボードを弾いているが

ピアノの方が断然似合っていると思う

張り詰めた弦の冷たさと、弾けば弾くほどに燃え上がる熱

今はちょうど、火が点いている時のようだ


「どうしたんですか」


諒が尋ねると


「希織にね、四回目の告白が来るかもって話」


部長の元折邦雅が、いつものぼさぼさ頭で適当にドラムを叩きながら答えてくれる

この人の温度は——

よく分からない

熱いかと思えば冷たく、冷たいかと思えば熱い

近付いても遠ざかっても同じような温度のようで

その、実体がどこにあるのか、時々迷うことすらある

それでも

この先輩は絶対に軽音楽部を冷たくはしない——と、思える


「だから、どうして私の話になるのよ」


自分でも、どうしてここまでむきになるのかと思いながら

希織は邦雅に言い返す

胸の奥が、少しだけ苦い

現岡と郁葉が部室に入ってきて

その、味が薄れていく

心のなかで甘みのある溜め息をつきながら

同じクラスの堂島君に三度も告白されたことを思う

それは、わずかにしんしんと辛みを伴って心臓に突き刺さる

嫌——ではない

むしろ嬉しかった——でも

踏み出せなかった

それが弱さだということは分かっている

だから、この思いは不快な塩辛さとなって希織を固縮させていく


「いったいどうしてそんな話になったんです?」


透明なゼラチンのように、現岡の声が部室を占める

この、無味な感覚は、希織にとっていつもちょうどいい箸休めになってくれる

兄の希月も邦雅のことも

幼い頃からずっと一緒にいて、食べ慣れた味の食事のように安心できる

だが

二人とも独特な味をしている

それは、ずっと食べ続けるには重い


「校内有名人の荒神さんが我が校きっての人気者、今堀君と付き合いだしたって

 学校中が盛り上がってたでしょう

 この機に乗じて希織も四回目があるんじゃないかと」


邦雅とはもう十年以上の仲だが

いまだに何を考えているのか分からない

悪意がないことだけは分かるが

味を説明できない卵焼きのようだと、いつも思う

今、自分はからかわれているのか、応援されているのか

それともただの気まぐれなのか——


「へー、そうなんですねー」


だから、やっぱり現岡のゼラチン風味に救われる

きっと彼は、荒神さんと今堀さんの話になどまったく興味がない

彼に別の味付けが入ることはなく

それよりもエレキギターを取り出しながら

恋人の郁葉にでれでれしている


「そういえば、うちのクラスでもその話してましたけど

 私は興味なくてあんまり聞かなかったです」


郁葉が、現岡に重ねるようにして言う

木漏れ日の下で食べる柑橘のように

甘みと爽やかな酸味が心地よく広がっていく

特に、その、甘さ——

どんな時ももたれることのない自然な甘み

それはいつでも希織に活気を与えてくれる


「まあ、二人はラブラブだから

 他の人の恋愛に興味なんてないよねー」


希月が、相変わらずクラシックギターを弾きながら喋る

——珍しいな、と、思う

ギター以外のことに関わる希月はいつだって淡白な味

それが今日は、自ら香味を求めるようで、少し饒舌だ

その味は現岡と郁葉にも染みていき

二人は酸味の強い赤りんごのようになって互いを意識する


「そ、それより、元折さんも恋愛話に興味持つんですね」


現岡のゼラチン風味がわずかにりんご風味となって

無理矢理、部屋全体の味付けを変えようと

香辛料のように彼の声が降ってくる


「いや、興味はないよ

 荒神さんと同じクラスだから嫌でも耳に入ってくるだけ」


香辛料を

その身に受けているようで自らの味は変わっていない

邦雅はいつもと変わらない


「今日は荒神さんも大変だったんじゃない?」


希織が、少しだけ味を足して邦雅に聞く


「そうだなあ

 でも何か、ちょっと引っかかるんだよなあ」


少しだけ、邦雅に味が付く

これも、珍しい


「荒神君の方は否定してたわよ」


言ってから、はっとする

そんなこと、言わなくても良かったのに

たぶん——

今朝のことを思い出したからだ

荒神君と堂島君の会話——

聞こえていないふりをしながら

それでも

二人の声が、自分に向かって香味を振りかけていたことを

希織は分かっている

いや、気にしているわけではない、と、希織は否定する

クラスのなかで、二人の味は少し変わっている

堂島君はクラスの誰よりも嘘のない味をしていて

荒神君は、嘘のようにまったく味がしない

それは現岡ともぜんぜん違う味のなさ

まるで、味のない雪のようなふわふわのカキ氷を食べているような感覚

でも、お姉さんのことになると

どろどろの血のような味になる——だから

希織も、荒神さんと今堀さんの話を本気で信じてはいない


「それより今日も練習始めましょうよ」


明るく伸びる現岡の声

心休まるゼラチンの味


「えー、もう始めるのー?」


そこに突き刺さる邦雅のよく分からない味


「現岡の言う通りよ

 早く始めましょう」


味を整えようと、希織も声を出す

しかし

希月は一人でクラシックギターを弾き続け


「相変わらずまとまらないっすね」


と現岡が笑い


「でもやっぱり

 私はこの雰囲気が好きだな」


と、郁葉の甘みが部室に行き渡り

希織は

すっと鼻を抜けるような爽やかな溜め息をつく

この料理はきっと不味い——でも

みんなと食べられる限り、それは美味しい

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