第二章 2
音が——
混乱している
初めて、の感覚ではない
すっぽりと抜けているのは
自分の意志が立てるはずの音
その音を生み出すための感情という波のような音
それが形となって波紋となる水面の音——そして
それらが伴う記憶という、時間の音
目の前に広がっているのは
よく知っている光景
学校の玄関、靴箱
その向こうに、ぱらぱらと降り出した雨の音
その、日常を、重たく響く耳鳴りのような音が飲み込んでいく
——分からないことはたくさんある
なぜここにいるのか、今はいつなのか、瞬はどうしたのか、今堀君は……
しかしそれ以上に、ただ——
潤子には不安の音が聴こえる
何かが——今、何かが起こっている
その予感の音が潤子の心臓を焦らせてくる
呼吸がついていけなくて
首から下の自分の音が聴こえない
鋭い音が耳と頭に広がって、潤子はしゃがみこむ
その横を
生徒たちが通り、誰かが止まり、でもすぐに、離れていく
——耳を、澄ます
聴こえなくてもいい音ばかりが主張して
雑音の塊のなかにいる気がする——その、なかに
潤子は自分の音を探す
ゆっくりと、立ち上がり、靴箱にもたれかかりながら
自分の呼吸の音を探す
だがすぐに拍動の音がかぶさってきて、うまく捉えられない
雨が
強くなってくる
それはノイズとなって潤子の存在を覆い隠そうとしてくる——いや
潤子だけではない
瞬の音が、全く聴こえない
思い出そうとしても流れてこない
広い宇宙のなかで大切な何かを見失って
たった一人暗闇を漂っているような、そんな感覚
このままでは、自分の音も消えてしまう
どうして——いったい何が起こっているのか分からない——それでも
今、世界のなかで、
瞬と自分が消されてしまうかもしれないという漠然とした予感の音だけは理解できる
潤子は
声を出して息を吸う
はっきりと聞こえる自分の声
続けて、声を出しながら息を吐く
なんとか、自分の音を確保できた
今のうちに、何かをしなければならない
急いで携帯電話を取り出して、瞬にかける
コールの音が、どこまでも無機質に響いて
潤子から現実の感覚を奪っていく
でも——
瞬の声を聞けば、きっと世界は元に戻る
瞬に何かがあったとしても
無事でいてくれさえすれば、音はまた何度でも蘇る——
だが
電話は冷たくコール音だけ響かせて
瞬の存在を遠ざけていく
唸り声を上げる闇が
高波のように潤子の水面を飲み込んでいく
気が
遠くなる——
いやでも
もし瞬に何かがあったのだとすれば
自分が瞬を助けなければならない
そう、決めたのだ
きっと自分の方が早く死ぬ——だから
それまでは自分が瞬を支え続けるのだと、決めたのだ
潤子は時計を見る
時間の進む音がしていて、少しだけ遡ると
すっぽりと音がしない間がある——それは
三十分弱
自分は確か、教室を飛び出して、屋上に向かって——でも
屋上まで行った記憶はない
そこから三十分ほど、いったい自分は何をしていて
いったい、何があったのか——どうして
瞬からの連絡がないのか
もう一度、瞬に電話をかける
だがやっぱり
繋がらない
まだ、屋上にいるのかもしれない
雨は強く降っているが
瞬なら気にせずそこで話をするだろう——だから
自分も、屋上に行けばいい——一本の
しっかりとした音が潤子を貫く
そうだ、ともかく動かなくてはいけない——しかし
動こうとすると、体中が震えて転びそうになる
あらゆる音が歪んでいって、潤子の内臓を捻じ曲げていく
足を、踏み出すと、吐きそうになる——でも
屋上に行かなければならない——でも
うまく歩くことすらできない
自分の音が、ばらばらに解体していく
それは自分を失う痛みではなく
瞬を失うかもしれないという恐怖と冷たさ
雨が、雨の叩きつける無慈悲な音が
瓦解に拍車をかけていく
涙が、落ちる
もう、泣くことしかできない
自分には、何も、何も、できない——
「潤子!」
——呼び声がした
涙が弾けて、わずかに調和を取り戻した世界の音が
潤子に再び意志を与える
「どうしたの、何があったの」
駆け寄ってくるのは紅花
その手が潤子の体を支えて、それが
潤子自身の音の基底で柔らかくしっかりと鳴り響く
「分からない
分からないの」
「とりあえず保健室行こう」
紅花が、支えてくれて
潤子はゆっくりと足を踏み出す——それでも
吐き気がする
やっぱり
吐き気がする
目を閉じて、ゆっくり首を横に振る
「頑張って、すぐそこだから」
——分かっている
吐き気がしても、きっと、でも、紅花と一緒なら歩くことができる
音に、集中する
紅花の音、その音と一緒に鳴っている、微かな自分の音
一歩、
続けて、一歩——
紅花と進む、一歩——そして
たどり着く保健室
「先生呼んでくるから、ベッドに横になってて」
紅花の、手が——
潤子から離れる
だが
潤子は紅花の手を掴んで、強く握った
「だめ、行かないで
お願い、一緒にいて」
紅花は、すぐに止まってくれる
その音を再び潤子の支えとしてくれて
「分かった、大丈夫だよ
一緒にいるから安心して」
包み込んでくれる
その声が、その手が、その音が——
少しだけ、瞬に似ているなと、思った
遠くから
パトカーの音が聞こえてくる
「何かあったのかな」
と、紅花が言う
ベッドに横になりながら
やっぱり瞬と今堀君に何かがあったのだと考える——それは
歪んで騒音にしか聴こえない世界のなかで
妙な確信を持って潤子の内で響く予感の鐘の音だった
だが
今は動けない
今はただ
紅花の手を握って、その温かな音だけが
潤子の冷たい心音を守ってくれた




