閑話 巴が見えていないもの いつかのはなし
真夜中の景色だ。
俺は家の外にいるようで、敷地の外から玄関扉を見つめていた。目の前にある門戸の向こう側で歩み寄ってくる影が見えた。
月明かりに照らされた姿は、汚れ混じりの白毛玉みたいな犬だった。
人懐っこく近寄ってきては、尻尾を振っている。
舌を垂らしてこちらを見る犬の目は、何かを期待して待っているような目の色をしている。
いつから握っていたのか分からないナイロン袋をガサガサと漁っていると、使い古された餌入れを犬が口に咥えて持ってくる姿が映る。
突然犬が興奮したように跳ね始めた。ちょうど、袋からドッグフードが取り出された瞬間だった。
映像が始まってからずっと遠くの方で話し声がしていた。独り言のような、笑い声のような、聞き馴染みのある声だ。
犬に餌をやり終わり、俺は同じ袋に入っていた缶コーヒーに口を付けている。
吐いた白い息が、星の近い夜空に染み渡るように消えていく。
突然、声が増えた。聞き覚えがなく、朧げな声がした。
玄関の方に視線が向き、扉が開け放たれる瞬間が映された。
消えかけの、不鮮明な何かだった。
場面は切り替わる。
明るくなった空。目の前を歩く先ほどと同じ犬。犬の首には不自然に浮いたリードが付いており、誰かがそれを握っているみたいだ。
飼い主だろうと手綱が伸びる方に視線が向いて驚いた。誰もいなかった。不可思議に手綱が宙に浮いていたのだ。
場面は切り替わる。
知らない部屋の中で、弁当を食べている光景だ。犬と俺の分にしては少し多いように見えるが、見覚えのあるそれらは全て美穂さんが作ってくれた美味しいやつだった。
突然、押入れの襖の光景に切り替わる。切り替わった以外に目立った変化はなく、ぶつ切りのように場面は切り替わった。
エビが現れた。
道端にシートを敷いて、お茶休憩をした時の映像だ。
エビにお茶を汲んでやると、大仰に喜んでいた。
妙に可愛らしい花柄のレジャーシートも何もかも、美穂さんがリュックに入れて用意してくれたものだった。
今聞こえる遠い声はエビのものだったようで、お茶の味を褒めている。
場面は切り替わる。
消化途中の吐瀉物が映り出される。急に吐き気を催した時の、俺の失敗映像だった。
偶然だが、リュックには片付け道具が入っていたのでエビに弄られながらも自分で目の前のものを片付けた。
なんで今、何もない方を見ているんだろう。
また襖だ。今度は隙間が見えるほどに開かれている。が特に動くことはない。
すぐに場面は切り替わった。
花星さんをエビに紹介された時なのだが、どうしてか、あの部屋だった。
知らないはずなのに、使い慣れている。
俺は何度も隣を見ていた。一人でボソボソと呟く声。気持ち悪い。
襖の前に俺は立っているのだろう。襖の引き手に手をかけていた。空いた隙間を閉じるのか、いっそのこと開けてしまうのか。
そこで場面は切り替わった。
俺の家だ。秀人さんとエビと話している時だ。花星さんの支度を待っているのだと、聞こえづらい会話から察せられた。
階段を降りてくる足音だろうか。階段の方へ視線が向けられる。
誰も居なかった。なのに目が離せない。遅れて現れた花星さんや美穂さんには焦点が合わない。
ずっと目の前を見つめている。
一瞬、綺麗な女性の赤面したような表情が見えた、気がした。
俺は目の前の襖を開けることにした。
ー
ガチャという音で彼女は目が覚めた。
「ここが君の家だよ」
背後で突然声がしたので彼女は振り返る。誰も居なかった。再び声だけがどこからか聞こえ始める。
「懐かしいかい?」
声の質問の意図が掴めない。振り返って開け広げられた玄関の先を彼女は窺うように覗いた。懐かしい感覚はない。しかし見覚えはある。玄関から漂う花の香りも知っている。居間も書斎も風呂場も変わっていない。階段を登った先には部屋が二つある。
「手前の部屋は悪いが閉じさせてもらったよ。君が使うのは奥の部屋だ。覚えているでしょう?」
声に従い奥の部屋へ入ると、簡素で整頓された室内だった。ベッドと使い古された書棚、木製机と椅子。
彼女はベッドに腰掛けた。シーツを撫でるとスルスルと音が鳴った。彼女は倒れるように寝転んだ。花の香りに包まれる。彼女が動くと制服とシーツが擦れる音がして、止んだ。
「気に入った?ずっとそこで寝たかったんだろう?邪魔なものはいないよ」
彼女は直感で声のする方を睨みつけた。顔も何も彼女には見えていなかったのだが、声主は慌てたような声を出した。
「な、何か怒らせるようなことを言ったかな?そんなつもりはなかったんだ。笑っておくれ、エリィ」
声主は甘い声で彼女を「エリィ」と呼んだが、彼女の名前は「エリィ」ではなかった。
彼女が否定すると声主が「何と呼んで欲しいのか」と尋ねてきた。
質問を受けてようやく彼女は自身がなんという名前だったのか、思い出せないことに気づいた。
パッと起き上がって、彼女は制服のポケットに手を入れて弄った。胸ポケットにもスカートにも何も入っていない。自身を証明する手掛かりが見つからなかった。
咄嗟に辺りを見渡した。何かを落としているはずもなく、何を探せばいいのかも彼女は分からなくなった。
ふと、古い書棚の方に視線が向いた。
趣味の合わない固い内容の専門書や学問書の中に一つだけ似合わない美術本を見つけた。
『陰影と明暗のテクニック』というタイトルだった。彼女は自然とその本に手を伸ばし、中を読み始めた。
「エリィ?」
声主がまたその名前で呼び始めると、彼女は本を読みながら表紙のある部分を指差してこう告げた。
「明って呼んで」
声主はすぐに要望を聞き入れて、彼女のことをメイと呼ぶことにした。
メイというのは彼女が一時期呼ばれていた渾名だった。なぜそう呼ばれていたのか、そこまで思い出せはしないが、彼女はその呼ばれ方を少しだけ気に入っていた。
彼女はベッドに寝転がりながら、どこか既視感を覚えるその本を読み進めた。
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